2008年4月 4日 (金)

2008年 花月園の桜

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 昨年に引き続き、今年もまた花見をしに花月園競輪場へと向かった。競輪の開催されていない園内の駐車場は、満開の桜を楽しむ家族連れで賑わっていた。昨年と同じ光景である。駐車場下の細い道は、いかにも「花月園遊園地」時代の名残のように思える。その舗装された道のアスファルトを割るように、一本の桜が根を張っていた。

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2007年11月26日 (月)

朝のバス停

Cimg2283  181系統は、鶴見駅西口から大黒ふ頭方面に向かう経路の市営バスである。朝のラッシュ時には始発のバス停に乗客の長い列ができる。その列は2列で構成されている。先発のバスを待つ乗客の列と、その次の後発のバスを待つ乗客の列だ。停留所のベンチがその列の区切りに使われている。先発のバスを待つ乗客は、ベンチの前に立って列を作りはじめる。後発のバスを待つ乗客は、ベンチの後ろに立って列を作る。やがて先発の列が長くなってくると、ベンチと、その後ろに立つ人々を包み込むようにぐるりと折り返す。まるでサンドイッチにようにベンチと人の列とが重なりあうのだ。
 やがて始発のバスが到着すると、先発を待つ長い列が次々とバスに吸い込まれていく。ドアが閉められると、後発のバスを待っていた人々が一斉にベンチの前に移動する。今度は彼らが「先発」を待つ列となったのだ。そして再び列が長くなると、ベンチの後ろピッタリとくっついて立つ後発待ちの列を包み込むように折り返す。誰が作ったわけでもない暗黙のルールが、毎日整然と繰り返されている。

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2007年9月25日 (火)

大黒橋からの光景

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 明神前の交差点から大黒町に向かう途中で、最初に渡る橋が「大黒橋」である。この橋を渡ると広大な埋立地に密集する工場群以外には何も存在しなくなる。日没近くには、大黒橋の下の大黒運河に、空の色が鮮やかに映える。この日は何故か釣舟が二艘たゆたっていた。

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2007年9月15日 (土)

厳島神社

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 厳島神社は駒岡3丁目の住宅地にぽっかりと存在する小山の上にある。この付近一帯の小字をかつて「丸山」と言ったが、それはこの小山の形状にあるようだ。細い石段を登ると、生い茂る樹木を払って作られた狭い境内の入口に「宝永二年」「弁才天」「石坂造」の文字が彫られている小さな石があった。300年前のものだ。石の鳥居の下をくねるように通された参道の先にはこじんまりとした祠があったが、鳥居や祠は比較的新しい時期に再建されたものらしく、古い建造物特有の風情は感じられない。樹木に阻まれて眺めを楽しむことも出来ず、やがて小雨が降り始めたため、早々に引き上げることにした。

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2007年9月 7日 (金)

梶山橋

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 三ツ池公園の北西には住宅地とつながっている出入口がある。そこから駒岡と梶山の境となっている細い市道に出、北に進むと陸橋に出る。これが梶山橋である。環状2号線を跨ぐこの橋は昭和43年の竣工だ。一旦渡りきってから坂を降り、下の歩道から見上げると、斜めに組み合わされた橋脚が橋桁を支えているのが分かる。鶴見の陸橋と言えば東寺尾の響橋(ひびきばし。通称:めがね橋)が有名であるが、この梶山橋もまた力強さと優美さを兼ね備えた印象的な橋だ。

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2007年9月 1日 (土)

二本木第二公園

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 二本木第二公園は東寺尾6丁目26番地の隅にある。この26番地は大部分が急斜面となっているため、開発されずに昔ながらの森がそのまま残されている。公園にはその森の木々が覆いかぶさっている。また公園内に植えられている巨大な樹木も天高く枝を伸ばしており、細長い公園にアーチ状の屋根が作られているようだ。遊具はあるが、子供の姿はなく、蝉の鳴き声だけが響いていた。

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2007年8月23日 (木)

寿老橋

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 昭和12年に埋め立てられた鶴見沖の新しい土地は、七福神に因んだ名前がつけられている。「大黒町」もそのうちの一つだ。鶴見駅から19系統の市バスに乗り、大黒町の最も西よりある「寿老橋」の入り口に行った。橋には送水管・送ガス管・送電線を通すための洞道が平行して敷設されており、むき出しの動脈のように見える。せっかくの運河河口の光景も遮られてしまっていた。この橋を渡れば神奈川区の「宝町」となる。「布袋橋」を渡るとその向こうが「恵比寿町」となるが、七福神の名のついた工場地帯を猛暑の中歩き通すのは無理のようだ。結局近くのバス停から、終点の新子安駅に向かうこととした。

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2007年8月15日 (水)

鶴見市場駅追突事故

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 昭和19年12月26日、午後8時20分、東京急行電鉄(現在の京浜急行)鶴見市場駅構内にて木造列車の追突事故が発生した。停車中の上り列車の後方より、上り品川行の列車が時速50mにて激突。後方列車の前輪は停車列車に25mほど乗り上げ、停車列車の3両目は右側に転覆大破、死者53人重軽傷者46人を出す大惨事となった。原因は後方列車の1両目の運転機械が故障したため、運転手(当時18歳)が車掌(当時19歳)を1両目に移し、2両目の運転台にて操縦していたことによる。灯火管制下、視野のきかないまま車庫入れを急ぐ運転手と、先頭車両の車掌との間に連絡がつくはずもなかった。このような後部車両による運転は当時しばしば見られ、加えて乗務員による信号安全の合図も励行されていない状況であった。当時の新聞でも「この事故は偶発的ではない」と糾弾されている。
 これほどの列車事故にもかかわらず、その記録は驚くほど少ない。『京急の駅 今昔・昭和の面影』『京浜急行百年史』には若干の記述があるものの、『鶴見区史』には巻末の年表にわずか一行。『環境・災害・事故の事典』(丸善株式会社出版)には、1874年以来270件近く載せられている国内の鉄道事故の年表に載せられていないのだ。
 戦争末期の灯火管制下、人員不足を象徴するような年若い運転手が引き起こした事故は、多くの悲惨な戦災に埋もれ忘れ去られてしまった。
(左:昭和19年12月28日、朝日新聞全国版(裏面)。事故は発生から2日後に新聞掲載された。紙面全体がすべて戦争記事であり、鉄道事故は裏面の下である。右:同日、朝日新聞神奈川版。「国防国体の活躍、事故処理に絶大な力」「物をいった氏名証、死亡食止めに衛生隊の功績」の文字が目立つ。)

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2007年8月 4日 (土)

『横浜の町名』

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 横浜市市民局から出版されている『横浜の町名』を地名研究に参照するときは、昭和57年の初版にあたらなければならない。例えば「岸谷(きしや)」に関する項目でも、以下の通り異なるのである。

【昭和57年版(初版)】
・岸谷(きしや)(一丁目~四丁目) 〔昭和四十二年・五・一〕
昭和四十二年住居表示の施工に伴い生麦町他一部より新設された町。町名は地元の要望により字名を採用したもの。キシとは、崖、山手などの意味を持つ地形用語で、岸谷とは「山側の谷戸」、あるいは「山手の谷」という意味で、現在の生麦を古くは岸村といった時代があり、岸村(ガケのある村)に対し、岸村にある谷戸という意味であるとも考えられよう。
【平成8年版(最新版)】
・岸谷(きしや)一丁目~四丁目 〔昭和四十二年五月一日設置、住居表示〕
昭和四十二年住居表示の施工に伴い生麦町他一部より新設された町。町名は地元の要望により字名を採用したもの。地名研究で「キシヤ」とは「山側の谷戸」あるいは「山手の谷」という意味という。一・四丁目の東側を東海道本線・横須賀線・京浜東北線が通り、二・三丁目の北西側を第二京浜(国道一号)が通る。

 昭和57年版に書かれていた地名の解説が、平成8年度版では大幅に削られてしまっているのがわかる。代わりに現在の岸谷の情報が書かれているが、これは「町名」と名付けられた本に載せるべき内容ではない。
 もともと本書は、昭和42年から始まった住居表示に伴い、新設された町名の由来を明らかにするために発行された本である。初版が刊行された当時は急速に統廃合されていく町名や地名に対し市民の関心が強く、またそれだけ行政に対しても高い見識が求められたのだろう。
(写真左:昭和57年版。地名研究家、桜井澄夫氏調査執筆委託されたもの。その内容はもとより住居表示課の挨拶文、附録に至るまで読み応えがある。写真右:平成8年版。)

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2007年7月26日 (木)

岸谷「根の道」

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 岸谷の台地の裾野を巡る長い道を「根の道」という。道沿いから縄文・弥生時代の貝塚が発見されており、海側の東海道よりもはるかに歴史の古いことが分かっている。この道が生麦・子安線として整備されたのは昭和6年。鶴見から獅子ヶ谷に向かう「獅子ヶ谷通り」の整備も、失業対策として始められたのが昭和6年であるというから、同じ目的の工事であったのだろう。現在ではバス通りとなっている曲がりくねったこの旧道には、安全のためのミラーがいくつも取り付けられている。
(絵:竜泉寺入り口付近。石垣は昭和6年当時のもの。)

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