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2006年4月30日 (日)

柳町の由来:訂正版

Scan10001_3  前回、「柳町」という字名は昭和になってからつけられたのではないかと推察したが、それは間違いであった。生麦村の名主であった関口一族の記録「関口日記」に、文政9年(1826年)水不足のため岸谷の溜め池より水を引いた際の記録が残っている。ここに「柳町にも水を引いた」という記録が出てくる。
 昭和5年の「鶴見区全図」には、新しく番地表示になった生麦町の310番地から564番地までの字名として「柳町」が使われているのは前回載せた通りである。しかし昭和33年の明細地図には、この付近に「原町」の表記がある。この「原」という地名も江戸時代以前のもので、むしろ文献にはこちらの方が圧倒的に良く見られる。実際、鶴見区の前身「生見尾村」のときは、この「原」を字名として使っていた。同じ地域に二つの字が混在しているようだ。
 小さな村の古い区画名を調べるのは大変時間のかかる作業である。生麦の字名については今後も分かり次第載せていきたい。
(昭和33年明細地図(有)経済地図社 番地表示は昭和5年と同じである。) 

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2006年4月21日 (金)

柳町の由来

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 鶴見駅から38系統もしくは41系統の市バスに乗ると、3つめの停留所が「柳町」である。しかし現在「柳町」という町は存在しない。昭和42年の住居表示施行の際、この名は失われてしまった。
 昭和5年の古地図「鶴見区全図」を見ると、現在の岸谷と生麦、鶴見の一部が合わさった区域全体が「生麦町」となっており、その「生麦町」の中にさらに5つの字(あざ)が存在していた。「明神前」「柳町」「貝助」「八幡前」「岸谷」である。この内「柳町」を抜かした4つの字については、その名前の由来をつきとめることが出来た。「明神前」は以前にも記載したが、杉山神社が「杉山大明神」と言われていたことからついた名だ。「岸谷」は、現在もその名の残るとおり新子安方面に向かって左手の、文字通り高台の地形を表している。「八幡前」は、現存している鶴見1丁目10番地の八幡宮からついた名である。「貝助」は「けいのすけ」と読み、生麦村の名主、関口八郎右衛門氏の祖先の一族に貝之助という人物いたという史実による。
 しかし「柳町」だけ、幾度となく鶴見図書館で調べても、その名の由来を見つけることができない。まるで地域の長い歴史とは関わり無く、当時突然付けられたような印象である。もともと「鶴見区」の前身である「生見尾村」(うみおむら)(明治22年設立)当時は、この生麦地区は「北」「南」「本宮」「原」「岸」の5つの区画にわかれていたようだ。しかし、明らかに場所の違う高台の「岸」以外、海側の由緒ある区画の名前が一つも残っていない。どれか一つの名前を残すとわだかまりが生じるため、とりあえず樹木の名前をとって「柳町」という名前が生み出されたかのようにも思える。もちろんこれは私の勝手な推測である。
 現在はその「柳町」の名が、バス停の標識に残されている。
(写真上:昭和5年製の鶴見区全図の複写の一部 写真下:岸谷4丁目の標識。実際の「柳町」は現在の生麦3丁目と岸谷1丁目・4丁目の一部をさしていた。)

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2006年4月15日 (土)

神奈川区との区界

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_165_2 神奈川区と鶴見区の区界である滝坂踏切から、神奈川区方面へ少し歩いた所に、小さな祠が建てられている。現地の説明板には「才兵衛稲荷の由来」の文字がうっすら見えるが、肝心の内容は消えてしまっている。「なまむぎ今は昔」(㈱230クラブ出版)の「東子安村境」を読み、初めてその内容を知ることができた。『金をなくした旅の僧が、海に身を投げて死んでしまった。その死体は何度沖へ運んでも(東子安村側の)茶店の裏へ流れ着いてしまう。村人があわれに思い、浜辺に稲荷社を建てた。』さらに次のように解説が続いている。「当時は死体などが流れ着くと色々な費用がかかり、村の負担が大変なので、東子安村の人は何度も死体を沖に運んで、となりの生麦村に流れ着くようにと思ったのでしょう。ところが潮の流れのせいか、元の所へ流れ着いてしまったと思われます。村境らしい話です。現在でも滝坂踏切の道で、事故などが発生すると、鶴見署と神奈川署でどちらが担当するのか、むづかしい場所だそうです。」鶴見区と神奈川区との区界になっている滝坂踏切の道は、江戸時代にも生麦村(現在、鶴見区生麦)と東子安村(現在、神奈川区子安通)との村境であったのだ。
 海沿いの村が潮の流れを読めないことなど果たしてあるだろうか。想像力をたくましくして推測すれば、何度も沖へ流した僧侶の死体が結果的に同じ場所に戻ってきたのは、潮の流れのせいではなく隣の生麦村が押し返していたためではないかと思える。「隣村に着くように沖へ流せ」という村長の決定は、隣村との関係を険悪にしただけではなく、祟りを恐れる村内にも不安感を高めた。おそらく村長としては、祠を建てて僧侶を祀り上げ、村内の不安を沈めると同時に、隣村に対しても「この件はこちらで処理したぞ」との証拠を見せざる得なかったのであろう。 
 「政治」の「政」も「祀り事」も、読み方は同じ「まつりごと」である。この小さな祠には「まつりごと」の難しさ、面白さが込められているのだ。(写真上:神奈川区子安通3丁目の国道15号沿いにある「才兵衛稲荷」 写真下:滝沢踏み切りに続く横断歩道脇に立つ「神奈川区」の区界。ここから100mほど歩いたところに祠がある。)

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2006年4月 8日 (土)

明神前の由来

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 「明神前」とは、京浜急行の生麦駅に最も近いバス停である。しかし、一体どこの「明神前」なのか、付近に神社が見つからない。バス停のすぐ裏手に「原の神明社」といわれる神社は存在するが、この神社が由来だとするならば、何故「神明前」とせず「明神前」としたのかが分からなかった。
 ところが最近になって、バス停より直線距離で500mばかり離れた岸谷の高台にある杉山神社が、明治40年までは「杉山大明神」と呼ばれていたという事実を知った。この高台(「宮山」と呼ばれていた)の下の海辺を「明神下の浜」と呼んでいたというのだ。(「なまむぎ今は昔」(株)230クラブ出版より)今では杉山神社と「明神前」のバス停の間に、JRや京浜急行などの鉄道幹線および国道15号が通されたことから、2つの場所の関連性が分かりにくくなってしまったが、このバス停の名前はバスや電車がなかった時代の名残であるのかも知れない。(写真左上:鶴見区生麦3丁目のバス停 写真右上:岸谷1丁目の高台にある杉山神社鳥居 写真左下:鳥居の柱の下に刻まれている「杉山大明神」の文字 写真右下:もう片方の鳥居の柱の下にある「天明元年丑歳六月吉日」の文字 1781年 江戸時代のものであることが分かる)

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国道駅スケッチ

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_177   「国道駅前」というバス停は、考えてみれば面白い名前だ。バス停の名前が、鉄道の駅名から付けられている例は他にもたくさんあるが、この国道駅は、駅名そのものが「国道15号」という道路の名前から付けられたのだ。バスはその国道15号線を走っているのだから、バスが先か鉄道が先か、入り組んだ名前である。
 国道駅は昭和の面影を残す駅として、本やテレビで紹介されている。しかし実際、駅の構内は薄暗く、外壁は剥離がひどいのか網で覆われている。手を入れることで昔の面影が失われるという批判があるのかもしれないが、昔の状態のままの現状を放置すれば、やがて駅全体を解体せざる得なくなるのではないか。歴史的な建造物として後世に残すのなら、保存のための計画を早めにたてるべきだ。

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2006年4月 6日 (木)

子生山東福寺スケッチ

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4月某日、東福寺に行く。寺の縁起によれば、子生山(こいけさん)東福寺は長治元年(1104年)鳥羽天皇よりその号を賜ったとされている。大変由緒正しい古い寺である。境内は手入れされり、満開の桜が咲いている。人もおらず静かで、この空間が贅沢なようなもったいないような気もする。
 帰りは花月園内の駐車場の桜を観て帰る。ここもまた駐車場にはもったいないような満開の桜の木々が植えられている。駐車場の端の駐輪スペースに陣取って、花見をしている女性達を見かけた時、競輪場として名を残す「花月園」の響きが、この場にはぴったり似合うと感じた。

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2006年4月 4日 (火)

花月園前交差点での交通事故

 花月園競輪場に向かう岸谷の交差点で、交通事故を目撃したことがある。自転車のおじいさんが競輪場方面に右折したところ、後から直進してきたオートバイの若い男性と衝突し、二人とも跳ね飛ばされてしまったのだ。私は生まれて初めて救急車を呼んだ。競輪のあるときは警備員が道沿いに立つのだが、突然の事故に動揺しているらしく「本部に報告して」などと連絡をとっている。私が携帯で呼んだほうが早いと思い、119を押したのだが、動かない二人を前に手が震えた。やがて救急車が到着し、救急隊員が被災者に意識を確認し始めた。若い男性は幸いヘルメットを被っており、意識はあるので会話は出来る様だった。「痛みはありますか?」「痛い・・・」「どの変が痛いですか?」「足の辺り・・・」確かこんなやりとりだったと思う。すると救急隊員はこう尋ねたのだ。
  「痛いながらも、動かせます?」
 緊迫の状況にあって、私の頭の中に思わず一瞬「?」という文字が浮かんだ。「痛イナガラモ?」間違ってはいないと思うが、あまり聞いたことのない日本語の使い方である。特に会話用語では・・・。「痛いとは思いますが、何とか動かすことは出来ますか?」正しい日本語の使い方ならば、このように指摘されるところであろう。しかし現場の救急隊員にはそのような長々しい文章を組み立てている時間は無いのだ。とにかく被災者が担架に乗る姿勢をとることが出来るのか出来ないのかで、その後の作業手順も変わってくるのだから。
 やがて「痛いながらも」何とか男性は身体を動かし、またもう一人のおじいさんも身体を起こし、担架に乗せられていった。お二人が回復されていることをお祈りする。

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鶴見駅西口の婦人像

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 鶴見駅西口にあるこの婦人像に目を留める人はどのくらいいるのだろうか?この婦人像「さわやかふれあい」は、鶴見駅東口の少女像「陽光」と同じ、井上信道氏の作である。台座には設計・施工「内藤石材店」と彫られている。井上氏は、地元「浅野学園」出身の彫刻家で、他にも多々作品を作られているようだ。この婦人像もあのゴミゴミとした西口にあって、なかなか「さわやか」なものだと思うが、なんといっても扱いが悪い。東口の「陽光」はそれなりに映えるが、西口の「さわやかふれあい」はひどいものだ。足元には樹木が植えられ銘が読めず、大小の立看板に隠され全体像が見えない。
 このような銅像は扱いや置き方によってガラクタのようになったりもするし、逆に周囲を引き締める気品の象徴になったりもする。東口の彫刻「三つの扉」(斉藤史門 作)は、ビエンナーレ出展とのことで鶴見区ホームページにも載せられているが、地元の作者、石材店が作ったこの銅像も、もっと大切にしてもいいのではないか。

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鶴見駅発バス停での出来事

 2月某日、鶴見駅西口のバス停での出来事である。帰宅ラッシュのバスは始発からほぼ満員だった。寒い中列をなして待たされた乗客を乗せていよいよ出発、というときになって、小学校3年生ぐらいの男の子が前方の乗り口から乗り込み、運転手に話しかけてきた。マイクを通して漏れ聞こえる話によると、どうやらこの少年は同じ系統の別のバスに財布を忘れてしまったらしいのだ。東口の市バス事務所に行けば話は早いのだろうが、時間が遅くて閉まっていたのか、あるいは「事務所に行く」という発想を持てなかったのか、すがるように運転手に問いかけている。相手がいい大人なら「ここに電話して下さい!」と応対するのだろうが、なんと言っても小学生である。運転手は無線を使って事務所と交信し、財布の忘れ物がないか尋ねている。乗客達も辛抱強く待っている。結局、その時点では財布は届いておらず、見つけたら連絡してあげるよということで、運転手が「名前と電話番号を言ってね」と言ったとたん、突如男の子はバスから逃げるように降りてしまったのだ。「え!?何故!?」運転手はポカン。乗客たちもポカン。これだけ皆で待っていたのに、ボクどうしたんだ?!届いてないならもういいやと思ったのか、それとも大人達の「早くしろ!」の無言の圧力が怖くなってしまったのか・・・奇妙な疑問符と共に、後味悪くバスは出発したのだった

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鶴見川漕艇場スケッチ

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 3月某日、鶴見川漕艇場に行く。鶴見駅から徒歩でも行けるが、末吉橋方面行きのバスにのり森永工場前で下車すればさらに早く着く。森永工場の裏、森永橋の袂にボートハウスとボートの発着場があった。快晴の祝日、練習用のボートが一艇、掛け声とともに目の前を行き来していた。
  16時もまわった頃、漕ぎ手達が発着場から上がり、ボートハウスに帰っていった。ボートは待機していたクレーン車で吊り上げられた。とその後、なんと発着場も分解され、同じくクレーン車で吊り上げられた。30分程の作業の後には何もかもすっかり片付けられ、元の鶴見川だけとなった。

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新興駅前の由来

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 バス停の名前の由来となった建造物が、すてに無くなってしまっている例は多くある。横浜市営バスの17系統にある「新興駅前」もその内の一つだ。新興駅とは、神奈川区守屋町から鶴見区大黒町まで通されていた貨物の路線「新興線」の終着駅である。(なぜ「新興線」と名づけられたかは不明。)写真を撮影した2004年時点で、この新興線はほとんど使われていなかった。線路はかろうじて存在したものの、「新興駅前」のバス停付近に「新興駅」が見当たらず、駅の跡地らしき場所に詰め所のような小屋が建てられていた。しかしその後レールも小屋も撤去工事を行ない、バス停付近にはほとんど駅の痕跡がなくなった。現在「新興駅」は神奈川区守屋町に移され存在しているが、バス停とは大分離れた場所であるため、今では何故17系統のバス停に「新興駅前」の名称がついたのか、乗客も見当がつかないだろう。
 かつて京浜工業地帯の湾岸地区は、貨物輸送の線路がはりめぐらされていたようだが、昭和50年代後半になると輸送手段がトラックなどに切り替わり、貨物の廃線が相次いだ。その京浜地区の歴史の一旦が、今ではバス停の名前にのみ残されているのである。(写真上左:鶴見区大黒町6番地のバス停)(写真上右:バス停近くにあった小屋)(写真下:神奈川区守屋町3丁目にある現在の新興駅)

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2006年4月 1日 (土)

大黒町海づり公園スケッチ

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 3月某日の日曜日、大黒ふ頭の海づり公園まで散策にでかける。鶴見駅より横浜市営バスの17系統で出発、途中明神前を経由し京浜運河を渡る大黒大橋を抜け、Tバースなどのコンテナ倉庫を抜け、30分近くかけて埋立地のどんづまりまで行く。
 公園には釣り客や親子連れ、一人で海を眺めタバコをふかしている人、季節外れの凧揚げをしている人など様々な人々がいる。風に反響するオブジェが、強風にあおられてやかましいばかりの音を響かせている。この日は雨のち晴れ、ときどき曇りと変わりやすい天候だった。ウッドデッキに横たわって釣りをしている若者は、時間をつぶしに来ているのか、真剣な様子は見えない。いかにも借り物といったような釣り竿もさっぱり動かないようだ。
 そのうち、本格的な曇り空となってしまい、あわてて帰宅の途に着く。鶴見方面のバスは相当先まで来ない。仕方なく帰りは109系統で桜木町方面に出ることにした。大黒ジャンクションからベイブリッジを越えて一気に山下ふ頭方面に出る。眼下に見える横浜港、運河の先のタンカー、壮大な景色とそれを結ぶ橋の長さが、市バスのわずか210円で体感できるという、思いがけない経験となった。港町横浜ならではの市民サービスと言える。しかし、桜木町駅から鶴見駅に戻る京浜東北に乗り込むときには、最新ファッションに身を包んだ人々中で、いかにも公園帰りの格好をした我が身が、少々恥ずかしくもあった。

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ごあいさつ

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                                                                                                                                                                                                                    鶴見区ぶらり絵日記にようこそ!

横浜市鶴見区在住のツルココが、鶴見区の風景をつづりました。鶴見区内の景色をスケッチしたり、地名やバス停の名前の由来について調べているうちに、わが街がますます身近に感じて来ました。皆様にも、ぜひお付き合いいただければ幸いです。(スケッチの場所は、鶴見駅東口 井上信道氏の彫刻「陽光」)

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