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2006年4月15日 (土)

神奈川区との区界

_156_2
_165_2 神奈川区と鶴見区の区界である滝坂踏切から、神奈川区方面へ少し歩いた所に、小さな祠が建てられている。現地の説明板には「才兵衛稲荷の由来」の文字がうっすら見えるが、肝心の内容は消えてしまっている。「なまむぎ今は昔」(㈱230クラブ出版)の「東子安村境」を読み、初めてその内容を知ることができた。『金をなくした旅の僧が、海に身を投げて死んでしまった。その死体は何度沖へ運んでも(東子安村側の)茶店の裏へ流れ着いてしまう。村人があわれに思い、浜辺に稲荷社を建てた。』さらに次のように解説が続いている。「当時は死体などが流れ着くと色々な費用がかかり、村の負担が大変なので、東子安村の人は何度も死体を沖に運んで、となりの生麦村に流れ着くようにと思ったのでしょう。ところが潮の流れのせいか、元の所へ流れ着いてしまったと思われます。村境らしい話です。現在でも滝坂踏切の道で、事故などが発生すると、鶴見署と神奈川署でどちらが担当するのか、むづかしい場所だそうです。」鶴見区と神奈川区との区界になっている滝坂踏切の道は、江戸時代にも生麦村(現在、鶴見区生麦)と東子安村(現在、神奈川区子安通)との村境であったのだ。
 海沿いの村が潮の流れを読めないことなど果たしてあるだろうか。想像力をたくましくして推測すれば、何度も沖へ流した僧侶の死体が結果的に同じ場所に戻ってきたのは、潮の流れのせいではなく隣の生麦村が押し返していたためではないかと思える。「隣村に着くように沖へ流せ」という村長の決定は、隣村との関係を険悪にしただけではなく、祟りを恐れる村内にも不安感を高めた。おそらく村長としては、祠を建てて僧侶を祀り上げ、村内の不安を沈めると同時に、隣村に対しても「この件はこちらで処理したぞ」との証拠を見せざる得なかったのであろう。 
 「政治」の「政」も「祀り事」も、読み方は同じ「まつりごと」である。この小さな祠には「まつりごと」の難しさ、面白さが込められているのだ。(写真上:神奈川区子安通3丁目の国道15号沿いにある「才兵衛稲荷」 写真下:滝沢踏み切りに続く横断歩道脇に立つ「神奈川区」の区界。ここから100mほど歩いたところに祠がある。)

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コメント

鋭い推察に思わず笑ってしまいました。また楽しみにしてます☆

投稿: moromina | 2006年4月19日 (水) 23時24分

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