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2007年3月28日 (水)

鶴見区区制80周年


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 現在 の鶴見区は、江戸時代には16の村(※)に分かれていた。明治22年、町村分合改称令により鶴見川河口の生見尾(うみお)村(後に「鶴見町」に改称)、鶴見川以東の町田村(後に「潮田町」に改称)、山間部の「旭村」の3村にまとまった。さらに大正14年、鶴見町と潮田町は合併し、新しい「鶴見町」となった。鶴見川で分かたれた鶴見と潮田は、江戸時代にはそれぞれ神奈川宿、川崎宿と別々の助郷村に指定されていたこともあり、距離は近くともさほど緊密な縁があったわけではない。特に鶴見は生活用水を溜池に頼り、潮田は川崎方面から引かれた二ヶ領用水を利用していたため、水の利用から考えれば潮田は川崎市への縁が深かった。鶴見と潮田が合併したのは京浜地区の埋め立てに伴い急激に工業化、商業化が進み、工場労働者が両地区を頻繁に往来するようになったためである。しかし人口の増加とともに深刻な水不足にも悩まされるようになった。
 昭和2年、鶴見町は旭村とともに横浜市へ編入した。工業地帯として発展する鶴見を編入させたいとする横浜市の申し出に対し、鶴見側が編入の条件として申し入れたのは、昭和2年9月までに水道の敷設をすることであった。横浜市はこの条件を承諾し敷設は完了した。同年10月、横浜市は区制を施行する。「横浜市鶴見区」はこうして誕生したのである。
(絵:鶴見駅東口にある獅子頭の共同水道栓。区制80周年の今年、横浜市との合併の契機となったこの水道施設にもう少し光を当ててもいいのではないか。)(※港北区の誕生により師岡地区は分区)

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2007年3月21日 (水)

末広橋からの風景

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 末広町から平安町2丁目まで通されていた京浜運河(別名川崎運河)は、モータリゼーションの発展とともに昭和初期に埋め立てられた。弁天町と寛政町に渡された末吉橋のすぐ上流の箇所が、その埋め立ての末端である。
 土留めの鋼材がむき出しに埋め込まれているが、片方の壁面にだけ昔の堀の跡がかろうじて残されている。鶴見川の下流とは全く違う、穏やかな水がたゆたっている。傍に植えられた大きな桜の木がこれから花をつければ、その姿が水面に美しく映ることだろう。(絵:末広橋から上流を眺む。ここから反対側の河口に続く水路は現在「旭運河」と名前を変えている。)

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2007年3月15日 (木)

『横浜木材史』

Photo_106  『横浜木材史』(師田滝三著 昭和33年7月 横浜木材業協同組合出版)は、江戸時代に深川の木場を拠点として確立していた木材業が、明治以降横浜にも発展していく様子が書かれている。木材業を通して横浜の近代商工史を知ることが出来る、大変勉強になる本だ。特に関東大震災後の輸入木材の増加に対応して計画された「横浜市営貯木場」の設置の経緯は、一読の価値がある。
 市営貯木場は、その設置場所を東京に近い鶴見沖とするか、横浜木材界の有力者が押す新山下町とするかで意見が分かれてしまった。昭和3年、東京外国木材協会が大反対していた新山下町にて承認されると、東京側は外材の輸入を「東京直航」とする決議を出した。「横浜港を使用しない」という決議に非常な衝撃と恐慌をきたした横浜側は、貯木場の経営権の7割を東京側に譲渡する旨の提案を出す。この提案でどうにか東京側との調整がつき東京直航は回避されるが、その際東京外国木材協会の幹事会が出した声明書が面白い。 
  
 「そもそも東京直航論と横浜提携論とは表面上大なる径庭あるが如きも、その根本目的は何等異る処なく、ただこれに到達する経路に相違あるにすぎず。・・・例えば足強き者は険路を直進して早く目的地に達せんとすれども、足弱き者は一見多少は遅く思わるるも平坦なる道を選び完全なる行程を希望すると同様なるべし。・・・共存共栄の精神により横浜側と強調し、直航に近き効果を収めて完全なる経路を採るは、至当の処置なるもの事を確信するものなり・・・」

 こうして様々な利害や対立を乗り越え、どうにか貯木場が本格的に運用開始された昭和10年には、すでに震災による特需が終わり、日本国内への米材の輸入は激減の一途をたどってしまっていた。

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2007年3月10日 (土)

もう一つの「ゆたか橋」

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 鶴見区の地図を見ると、小野町の鶴見川沿岸で不自然に切れている道をみつけることが出来る。実はかつてここから対岸の生麦を結ぶ「ゆたか橋」という釣り橋が存在していた。竣工は昭和8年1月。数年後に暴風雨で破壊されたということだが、昭和14年の地図にはまだ存在している。現在この場所に行ってみると一面を更地にして工事が始まっており、切れた道の先端を確認することがすでに出来なくなっていた。対岸の生麦側でも護岸工事が進んでおり、その痕跡らしきものはない。川岸に降りるために作られた新しい階段が、おそらくかつての橋の位置にあたるのではないかと思われるだけであった。(絵:対岸の生麦側には名物の「貝殻を敷き詰めた川辺」が見えたが、護岸工事が進めばそれもまた失われそうな気配である。地図左:現在の鶴見区の地図。地図右:昭和9年の地図。)

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2007年3月 4日 (日)

豊橋

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2_1  前回の緑橋を見に行く途中で偶然に見つけた別の橋がある。「豊橋」である。旭運河と平行して設置されている石の欄干は、なんと片方しか残されていない。存在するべきもうもう片方の側には入船公園の街路樹が並んでいる。欄干の下を覗くと窪んだ地面が見える。
 昭和9年の地図を見ると、入船公園はかつて巨大な貯木場であったことが分かる。豊橋の下には運河と貯木場をつなぐ水路が存在していたのだ。鶴見は船便、川便、陸路とも交通の便がよく、また大正期からの埋立地に進出した大企業の工場労働者向けの住宅供給のために、昭和初期には製材工場や木材店が多く立ち並んでいたという。その後貯木場であった場所は日本鋼管(株)鶴見製鉄所となり、昭和60年には現在の入船公園となった。その過程で池はおろか水路も埋め立てられ、橋の片方の欄干も外されてしまったようだ。
(地図:「鶴見木材会社池」の表記が見える。この会社の詳細は不明である。鶴見区内での木材業者が共同で使用していたのであろうか。)

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