2007年5月24日 (木)
2007年5月19日 (土)
花月園弁天堂の史跡
花月園競輪場の駐車場の奥、競輪組合の建物の横に小さなグラウンドがある。このグラウンドはかつて「花月園」の「スワン池」であった場所だ。ボート遊びの出来るスワン池の周りには、当時の著名な画家達の絵馬が奉納された「絵馬堂」の回廊が巡らされ、その典雅な風景を見下ろすように石造りの高台の上には「弁天堂」が建てられていた。70年前に閉鎖された遊園地の跡が残されている数少ない箇所だ。
競輪場の開催日ともなると、駐車場に入りきれない車はこのグラウンドに誘導されているようだが、石造りの高台だけは鶴見の遺産として保存してほしいものだと思った。
(絵:雑木林に埋もれる史跡。脇の階段は今でも上ることが出来るが、弁天堂が建てられていた跡地には草木が生い茂り、眺めを楽しむことは出来ない。)
2007年5月13日 (日)
「花月園」
新橋の料亭「花月」の経営者だった平岡広高が鶴見の台地に作った児童遊園地の名を「花月園」といった。その開園の経緯が『花月園弁天堂絵馬集』の前書きに記されている。
「園主欧米を漫遊し、たまたま仏国パリの郊外に特設された児童のみの遊園地に散策し、その設備一つとして児童本位のものならざるはなく、視るもの聴くもの食するもの皆留意到らざるなきに、痛く驚嘆させられたのであります。更に同園には救護所をも常設し、医師看護婦等を置きて万一に備え、かつ掃除その他衛生施設が行き届いて紙屑一つ散乱せざるを見、しかも我が日本にはこの種の遊園地絶えて無きを顧みて、転た羨望に堪えませんでした。」
大正3年花月園は開園した。当時最先端の大遊園地は隆盛を誇り、最盛期の来園者は年間100万人、敷地は7万坪にまで拡大したが、平岡の理想はさらに高みにあった。
「理想の拡張、即ち十五、六万坪にして国有公園を凌駕する如きものとなすにはまだ尚四五百万円を要するのです。どうかこの老人の宿願を遂げさせられんことを江湖識者に懇願いたす次第であります。」
子供の健全な育成を願いその王国の完成を目指した花月園は、その後不況の影響などにより、昭和8年多額の借財のため平岡の経営より離れ、昭和14年に閉鎖となった。今ではその名前のみが跡地に作られた競輪場に受け継がれている。
(写真左:花月園競輪場の入り口に立つ案内板。写真右:現在の京急花月園前駅。「花月園前駅」はもともと工事費用を花月園側が負担する形で大正4年に作られた駅である。)






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