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2007年7月 7日 (土)

成願寺三ッ池

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 曹洞宗大本山総持寺の山門脇、三松閣前にある小池は、かつて「成願寺三ッ池」と呼ばれた溜池の一つである。もとは三段に分かれていたが、その内の2つが埋め立てられ、現在まで存在している最後の池には6階建ての建造物を支える巨大な鉄筋が打ち込まれている。それなりに手入れはされているようだが、水量の少なくなった姿は風光明媚とは表現し難い。しかしこの小池こそ、かつては生麦北部耕地を潤していた農業の生命線であった。
(写真左:総持寺は明治40年、石川県より鶴見の成願寺境内に移転してきた。三松閣の裏手の森に旧成願寺跡地の碑が残されているが、訪れる人は少ない。地図右:明治14年の地図。溜池が三つ描かれている。)

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コメント

「池」の意味って、昔と今ではすごく違っていそう。
水道のない時代だったら、私も「池のそばに住みたい」と思ったと思う。
平安時代の寝殿造りとか、敷地の中に人工的な池を
つくるというのも、「池」が何か(「ゆとり」とか)の象徴だとしたら、
納得できる。
スケッチを見ると、向こうに現代風?の建物があるように思う。
都市景観の調和って難しいね。

投稿: stonefield | 2007年7月 9日 (月) 06時12分

そうだね。この池が大昔、人工的に作られたかどうかは
不明ですが、お寺が管理していたということは、お寺の権威を
象徴するものであったかも知れませんね。

スケッチの向こうの建物は、総持寺敷地内にあります。
総持寺は、鶴見の「品格」を語る上で大切な存在ですが
私が好きな「鄙びた」雰囲気はあまりないです。少し残念かな。

投稿: tsurucoco | 2007年7月 9日 (月) 23時19分

 おひさしぶりです(^^)
 幼少期、広場でよく遊んだ私。
すぐそばにりっぱなお屋敷がありました。
塀もりっぱで、木が生い茂っていました。
 広場ではよく野球をしました。
せまい広場なので、よく、そのお屋敷にボールが入ってしまいます。
♪ピンポ~ン♪
「ボールとらせてください!!」
奥様登場。
「どうぞ・・・」と優しく言ってくれます。
ちょっとの間、そのお屋敷の中に入ることができて、得をした気分。
そんなことが重なっていると、あるとき、奥様が、お庭の奥まで入ってらっしゃい、と誘ってくださったのです。
 何を話したのかよく覚えてません。
とにかく、社宅である我が家のすぐお隣とは思えない、全く違う世界。緑の中の日本家屋。
緑がたくさんすぎて、あまり日のあたらない濡れ縁。
そして、そこには池がありました。
 奥様は、静かな、本当に静かな人でした。
 何も話すことがなくても、私はその人のそばにいるのが好きでした。
 あるとき、奥様は私に、
「風船で飛ばされてきたの。きっと、あなたと同じ年くらいじゃない?」
と割れた風船をくれました。
 そこには、「文通しましょう!! ○○小学校6年○組一同」
と書かれたメモに、花の種がついていました。
 しばらく、その小学校のお友達と文通しました。

 小学校を卒業するとすぐ、引越しすることになり、
奥様とはろくにお別れのあいさつもできないまま、時がたってしまいました。
 十年くらいたった頃、母から、その奥様が亡くなられた、と聞きました。
 母は濁しましたが、どうやら、病気や事故による死ではなかったみたい。
 私は時々、緑いっぱいの庭、池、そして、その庭や池と同じように
静かだった奥様のことを思い出します・・・。

 なんだか、作り話みたいでしょ・・・。
でも、本当に私の思い出なのよ~っ・・・。
  

投稿: ちゃり | 2007年7月27日 (金) 09時37分

お久しぶりです。
すばらしい思い出ね。
まさに旧家と言われるお屋敷だったのでしょうね。
敷地内に池があるとは・・・。
短編小説のような世界だね。素敵だわー。

鶴見にも、旧家と思われる家があり
明細地図をみてはその敷地の広さにうっとりしています。
でも、実際に近くに行ってみると、まるで森のように鬱蒼と
しており、中にいる人たちは必ずしも住みやすいわけでは
ないんじゃないかなー、と思ったりもしますが。

投稿: tsurucoco | 2007年7月27日 (金) 21時25分

岸谷「根の道」に投稿したのですが、なぜかコメントとしてカウントされません。読めます?

投稿: stonefield | 2007年7月30日 (月) 06時28分

読めます。コメントありがとう。
私は確かに「道」の情景には大変心惹かれます。
鶴見でも平安町や潮田など、明治になってから
開発した地域は、きれいな碁盤の目になっています。
それはそれで地域の歴史を感じますが・・・
でもやっぱり好きなのは、この先どこにつづくのか
わからないような入り組んだ細い道かな。
入り込んだ先が、実に意外な場所に通じていたりすると
感慨もひとしおです。

投稿: tsurucoco | 2007年7月30日 (月) 20時56分

お正月のお休みです。何気に古地図を見ていたら、総持寺のあるところに成願寺と書いてありました。わたしの持っている古地図は、明治39年の2万分の1地形図で、成願寺三つ池の西には横浜射撃会場ができておりました。総持寺を作る時にはこの射撃会場はどうしたのでしょうか?

投稿: 徘徊おじさん | 2011年1月 3日 (月) 16時32分

はじめまして。コメントありがとうございます。
「横浜射撃会場」については残念ながら知識がありません。
是非調べて記事にしたいと思います。
新年早々ネタを提供していただきありがとうございます!(笑)
気長にお待ちいただければ幸いです。
確か8日は総持寺で消防団の出初式がありますね。

投稿: tsurucoco | 2011年1月 3日 (月) 22時39分

横浜射撃会場の続きです。この記載は昭和14年発行の2万5千分の1「川崎」にも載っています。いろいろ調べてみました。230クラブ新聞社発行「鶴見ところどころ」によると、明治21年から放鳥射撃会が行われたところだそうで、昭和8年の日本クレー射撃選手権につながっているそうです。宝蔵寺東の鶴見台地の谷戸の奥にあり、周囲は高い崖状となっていて、これなら射撃を間違えても、弾は変な所に飛んで行かないなと感じました。右手には林も残っていて、昔をしのぶことができます。横浜市HPにある昭和30年の3千分の1地形図には、射撃会場が開発されていく姿が載っています。

投稿: 徘徊おじさん | 2011年1月16日 (日) 11時24分

私も微力ながら調査をしております。
鶴見には2つの射撃場があった・・と認識していました。
(1)管轄:横浜放鳥射撃会 場所:鶴見村(現総持寺境内) 明治21~明治42
(2)管轄:帝国猟友会 場所:東寺尾村(現宝蔵院東) 大正3年~?
しかしこの「横浜放鳥射撃会」と「帝国猟友会」との関係が不明であると同時に、昭和9年の地図を見たところ「鶴見猟友会射撃所」なる文字も別所付近に発見してしまい、行き詰ってしまってしまいました。今後も調査を続けていきますのでよろしくお願いします。
尚、私がみつけた参考資料は
『横浜スポーツ百年の歩み』(横浜放鳥射撃会の記事があります)
参考URLは
http://ooi-clay.com/html/rekishi.html
http://homepage3.nifty.com/y-masae/heisei_21/05kaikou150/05kaikou_hyousi/06hajime/hajime.html
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2011.html
です。
もしよろしければ、徘徊おじさん様がおっしゃっている宝蔵院東にあった射撃場の現在の住所はどのあたりが教えていただけますでしょうか?よろしくお願いします。
 

投稿: tsurucoco | 2011年1月16日 (日) 20時32分

tsurucoco様
いろいろ調べてみましたが、はっきりいたしません。
明治42年の地図には成願寺三つ池の西に射撃場があります。地形からすると、現在の東寺尾中台の平和病院下のくぼ地ではないかと想像いたします。
その後、大正11年の地図には宝蔵院の東に射撃場の記載があります。tsurucoco様の情報ですと、途中で引っ越したとのことですので、様子としては一致しそうです。宝蔵院東の場所は地形から見て現在の馬場4丁目13の官舎のところと思われます。
詳しく調べようと思い、土地法典なども調べてみましたが、図書館にはあいにく鶴見町の土地法典は昭和7年のものしかありませんでした。その土地法典によると、このあたり一帯は宝蔵院の土地となっていますので、宝蔵院様に聞くことが一番早いのかと思います。
付近一帯は鶴見台地とそれを取り巻く谷の発達がよく残っており、地形探索には良いところですね。
今度は、有名な「建武元年松蔭寺古図」を片手に徘徊を考えております。

投稿: 徘徊おじさん | 2011年1月22日 (土) 18時28分

ありがとうございました。
『鶴見ところどころ』を読んでみました。
この本には、3つの射撃場が出てきてますね。失礼しました。
まとめてみると以下の通りとなりますでしょうか。
(1)管轄:横浜放鳥射撃会 場所:鶴見村(現東寺尾中台の東芝関連施設付近か) 明治21~明治42年以前(←明治42年には戸塚に移っていた模様)
(2)管轄:帝国猟友会 場所:東寺尾村(現馬場4丁目13付近か) 大正3年~大正11年以降?年
(3)管轄:鶴見猟友会 場所:旭村(現下末吉5丁目13付近か)←前回「別所付近」と書いてしまいましたが、『鶴見ところどころ』によると下末吉のようですね。 大正12年以降~?年
それぞれの組織の関連は不明

クレー射撃関連の史料を調べるとも少し詰められるかもしれませんね。
私は次回は生麦付近で「徘徊」する予定です(笑)。もちろん馬場付近にも出没しておりますので、どこかでお会いするかも知れませんね。

投稿: tsurucoco | 2011年1月23日 (日) 00時07分

射撃場のこと。
東京都大田区のウィキペディアの中の項目に文化財・名所旧跡があり、その中に「・日本帝国小銃射的協会の碑(大森射的場跡) 山王二丁目にある。1899年(明治32)明治天皇の御下賜金200円を基金に日本帝国小銃射的協会が設立された。1937年(昭和12)周囲の宅地化により射撃場は神奈川県鶴見北寺尾へ移転し、現在は大森テニスクラブとなっている。」という記載がされています。この昭和12年に造成されたのか、あるいは、すでに存在していた射撃場に編入されたのかわかりませんが、私が何かで読んだ文章にこの大森の射撃場の射撃の音が3-400m離れた小学校でも聞こえていたそうです。何かのさんこうになればと投稿いたします。

投稿: 古いものが好きな人。 | 2012年3月11日 (日) 04時02分

お返事遅くなってしまって本当にごめんなさい!
最近は私事でばたばたしてしまって、すっかりスケッチから
遠ざかってしまいました。コメントありがとうございました。
山王2丁目にある大森射撃場跡には是非探索に行かねば
なりませんね。
射撃場によって大森と鶴見がつながっていたとは
なんだか不思議な気がしますね。

投稿: tsurucoco | 2012年5月 2日 (水) 19時22分

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