2009年8月11日 (火)
2009年7月12日 (日)
2009年7月 4日 (土)
『鶴見川の橋』
鶴見川の源流から河口まで120基の橋を撮影した写真集である。人道橋に限らず、鉄道、ガス、電気、水を通すためのすべて橋が含まれる。
始まりはわずか2メートルの「石橋」から、最終的に220メートルの長さを誇る「鶴見大橋」へと徐々にその長さを増していく様は、そのまま鶴見川の成長を物語っているかのようだ。一つ一つの特徴をとらえた構図と、名称、竣功年、橋長、所在地を記した簡潔なメモが橋の個性を雄弁に物語る。特に橋の「名称」と「長さ」を見ると、その橋を利用する地域住民の生活や歴史にまで思いを馳せることが出来る。橋を通して鶴見川を味わえる面白い写真集だ。
発行は平成4年。平成8年に架け替えられたアーチ型の鶴見川橋などは掲載されていない。是非第2版を発行して欲しい。
2009年6月12日 (金)
「豊橋」~その読み方~
2007年3月にスケッチし、記事にした入船公園脇の豊橋をもう一度確見に行った。元宮のカスケードビール工場が撤去されて以来、失われる可能性が高い史跡については早急に記録に残しておかねばならないと思うようになったためである。
実は前回スケッチした際、この橋を「とよはし」と読むのか「ゆたかばし」と読むのかが不明であった。『つるみ・潮田歴史散歩』(瀬田秀人著)には、かつて鶴見川河口にあった豊橋と同名である旨が書かれている。これに拠るなら「ゆたかばし」と読むのが正しい。しかし愛知県の市名にもある通り一般的には「とよはし」と読む方が多いであろう。さらに昭和6年、横浜の筏会社14社が合併してつくられた「株式会社豊組(とよぐみ)」の存在が気になる。昭和初期まで貯木場であった入船公園の場所に木材を運び入れるため、朝夕と無くこの細い水路を行き来していた筏師達の会社名にちなんで名付けられた可能性は高い。そうだとすれば当然「とよはし」と読むのが正しいであろう。
もしかしたら失われた片方の欄干には仮名の読み方が刻んであったかもしれない。小さな橋の読み方が横浜の木材史を語っていたかもしれなかった。しかし今となっては確認することは出来ない。せめて現存している欄干だけはしっかりと保存したいものだ。
(左:柱に付けられた「豊橋」のプレート 中:反対側の柱のプレート。「昭和参拾七年参月竣功」の文字。右:昭和33年の明細地図。現存する豊橋は昭和37年に架け変えられたものだと思われる。この時代にはすでに貯木場は埋め立てられ日本鋼管の製鉄所になっており、水路のみが残されていたようだ。)
2007年3月のスケッチはこちら→
http://tsurucoco.cocolog-nifty.com/1/2007/03/post_9e36.html
2009年5月25日 (月)
2009年5月 6日 (水)
2009年4月 6日 (月)
2009年3月30日 (月)
2009年3月10日 (火)
2009年2月21日 (土)
弁天橋駅
弁天橋駅は短いプラットホームに屋根が載っているだけの簡素な造りである。しかし白木で組み上げられた柱と屋根に覆われた小さな空間からは不思議と力強さが感じられる。列車の到着時刻以外は静けさに包まれている。まるで社の中にでもいるようだ。
駅のベンチに座り一人スケッチをしていると、鶴見駅行きの列車が到着した。それに合わせて数名の人々が駆け込んで来た。切符を買おうと焦る彼らに、列車の中から乗り出した車掌が「とにかく乗って下さい!(列車の)中で普通に買えますから!」と声をかけた。土曜の昼間、鶴見線は1時間に2本しか運行していないのだ。定刻だからといって乗客を置いて出発することはこの列車の流儀ではないのだろう。
2009年1月13日 (火)
獅子ヶ谷交差点にて
正月前タクシーで帰省した際、獅子ヶ谷交差点にて運転手が次のように教えてくれた。「お客さん、正面の竹林にまだ青い一群があるでしょう。あそこは今年、竹の花が咲いたんですよ。竹の花が咲いて米が出来たんですよ。こうなると竹も寿命です。古い竹が倒れて新しい竹が生えてきたんですよ。だからあそこの一群だけまだ若い竹なんです。」
その時ぼんやりと聞いていた話を思い出し、再び現地に行って確認してみた。しかし運転手から教えられた「青い一群」がもはや分からない。仕方なく近くの花屋で尋ねてみると、返ってきた答えは意外であった。「最近竹が生え変わったという話は、聞かないなぁ。竹というのはね、もともと一株から分かれたんですよ。だから枯れるとなったら日本全国で一斉に枯れてしまうんです。ここだけということは無い筈ですよ。」
お店の人にお礼を言って獅子ヶ谷交差点を振り返った。寒空の下に広がる竹林に風が吹き付けていた。
2008年12月 9日 (火)
豊岡町のバス停 ~不思議な標識~
豊岡町の名前を冠したバス停の標識は実に奇妙である。獅子ヶ谷通りにある「豊岡『一』丁目」と昭和坂に向かう通りに存在する「豊岡『2』丁目」は、その表記が統一されていないのだ。これは「豊岡一丁目」が臨港バス専用のバス停なのに対し、「豊岡2丁目・豊岡二丁目」は横浜市営バス・臨港バス共同のバス停であり、標識は「豊岡2丁目」と表記する市営バス側が設置したためであるようだ。
実際にはどちらの表記が正しいのかと言えば、実はどちらも正しくない。豊岡町は住居表示地区であるが、住所は「豊岡町○番地○号」と番地から表記するため、豊岡○丁目と表記される地区はそもそも存在しないのだ。
バス会社が便宜上作った架空の住所で表記されたバス停の標識は、しかし、さしたる違和感もなく豊岡町に存在している。
2008年11月25日 (火)
2008年10月 6日 (月)
2008年9月 7日 (日)
2008年8月25日 (月)
鶴見駅東口裏の「柳小路」
鶴見駅東口に「柳小路飲食店街」の看板がかかる薄暗い路地がある。実際にはこの場所に飲食店はない。両側のフェンスの中には雑草がはびこっているだけである。 約40m前後の小路の存在を知ったのは、足の不自由な方の車椅子を押してからだ。
鶴見駅東口に建つ駅ビル「カミン」は、ショッピングセンターとしてだけではなく東口の改札を利用する乗客の通路でもある。しかし駅の改札階は、カミンの「中3階」にあたっている。カミンの中にはエレベーターはあるものの、2階で降りても3階で降りても数段の階段を使わねば改札に行き着くことが出来ない。そのため車椅子の方はカミンから一区画離れたJRのエレベーターまで行き、2Fにあがり、また一区画の距離を戻って改札まで行くこととなる。カミンの脇に存在する「柳小路」は、この回り込む距離を少しでも短くしてくれる近道であった。
今年9月、43年前にオープンしたカミンは閉店する。東口は再開発されることとなっているが、平成に建つ新しい施設には是非車椅子の方、ベビーカーの方がこの柳小路を使う必要のない設計を望みたい。
2008年7月25日 (金)
2008年4月 4日 (金)
2007年11月26日 (月)
朝のバス停
181系統は、鶴見駅西口から大黒ふ頭方面に向かう経路の市営バスである。朝のラッシュ時には始発のバス停に乗客の長い列ができる。その列は2列で構成されている。先発のバスを待つ乗客の列と、その次の後発のバスを待つ乗客の列だ。停留所のベンチがその列の区切りに使われている。先発のバスを待つ乗客は、ベンチの前に立って列を作りはじめる。後発のバスを待つ乗客は、ベンチの後ろに立って列を作る。やがて先発の列が長くなってくると、ベンチと、その後ろに立つ人々を包み込むようにぐるりと折り返す。まるでサンドイッチにようにベンチと人の列とが重なりあうのだ。
やがて始発のバスが到着すると、先発を待つ長い列が次々とバスに吸い込まれていく。ドアが閉められると、後発のバスを待っていた人々が一斉にベンチの前に移動する。今度は彼らが「先発」を待つ列となったのだ。そして再び列が長くなると、ベンチの後ろピッタリとくっついて立つ後発待ちの列を包み込むように折り返す。誰が作ったわけでもない暗黙のルールが、毎日整然と繰り返されている。
2007年9月25日 (火)
2007年9月15日 (土)
2007年9月 7日 (金)
2007年9月 1日 (土)
2007年8月23日 (木)
2007年8月15日 (水)
鶴見市場駅追突事故
昭和19年12月26日、午後8時20分、東京急行電鉄(現在の京浜急行)鶴見市場駅構内にて木造列車の追突事故が発生した。停車中の上り列車の後方より、上り品川行の列車が時速50mにて激突。後方列車の前輪は停車列車に25mほど乗り上げ、停車列車の3両目は右側に転覆大破、死者53人重軽傷者46人を出す大惨事となった。原因は後方列車の1両目の運転機械が故障したため、運転手(当時18歳)が車掌(当時19歳)を1両目に移し、2両目の運転台にて操縦していたことによる。灯火管制下、視野のきかないまま車庫入れを急ぐ運転手と、先頭車両の車掌との間に連絡がつくはずもなかった。このような後部車両による運転は当時しばしば見られ、加えて乗務員による信号安全の合図も励行されていない状況であった。当時の新聞でも「この事故は偶発的ではない」と糾弾されている。
これほどの列車事故にもかかわらず、その記録は驚くほど少ない。『京急の駅 今昔・昭和の面影』『京浜急行百年史』には若干の記述があるものの、『鶴見区史』には巻末の年表にわずか一行。『環境・災害・事故の事典』(丸善株式会社出版)には、1874年以来270件近く載せられている国内の鉄道事故の年表に載せられていないのだ。
戦争末期の灯火管制下、人員不足を象徴するような年若い運転手が引き起こした事故は、多くの悲惨な戦災に埋もれ忘れ去られてしまった。
(左:昭和19年12月28日、朝日新聞全国版(裏面)。事故は発生から2日後に新聞掲載された。紙面全体がすべて戦争記事であり、鉄道事故は裏面の下である。右:同日、朝日新聞神奈川版。「国防国体の活躍、事故処理に絶大な力」「物をいった氏名証、死亡食止めに衛生隊の功績」の文字が目立つ。)
2007年8月 4日 (土)
『横浜の町名』
横浜市市民局から出版されている『横浜の町名』を地名研究に参照するときは、昭和57年の初版にあたらなければならない。例えば「岸谷(きしや)」に関する項目でも、以下の通り異なるのである。
【昭和57年版(初版)】
・岸谷(きしや)(一丁目~四丁目) 〔昭和四十二年・五・一〕
昭和四十二年住居表示の施工に伴い生麦町他一部より新設された町。町名は地元の要望により字名を採用したもの。キシとは、崖、山手などの意味を持つ地形用語で、岸谷とは「山側の谷戸」、あるいは「山手の谷」という意味で、現在の生麦を古くは岸村といった時代があり、岸村(ガケのある村)に対し、岸村にある谷戸という意味であるとも考えられよう。
【平成8年版(最新版)】
・岸谷(きしや)一丁目~四丁目 〔昭和四十二年五月一日設置、住居表示〕
昭和四十二年住居表示の施工に伴い生麦町他一部より新設された町。町名は地元の要望により字名を採用したもの。地名研究で「キシヤ」とは「山側の谷戸」あるいは「山手の谷」という意味という。一・四丁目の東側を東海道本線・横須賀線・京浜東北線が通り、二・三丁目の北西側を第二京浜(国道一号)が通る。
昭和57年版に書かれていた地名の解説が、平成8年度版では大幅に削られてしまっているのがわかる。代わりに現在の岸谷の情報が書かれているが、これは「町名」と名付けられた本に載せるべき内容ではない。
もともと本書は、昭和42年から始まった住居表示に伴い、新設された町名の由来を明らかにするために発行された本である。初版が刊行された当時は急速に統廃合されていく町名や地名に対し市民の関心が強く、またそれだけ行政に対しても高い見識が求められたのだろう。
(写真左:昭和57年版。地名研究家、桜井澄夫氏調査執筆委託されたもの。その内容はもとより住居表示課の挨拶文、附録に至るまで読み応えがある。写真右:平成8年版。)
2007年7月26日 (木)
2007年7月 7日 (土)
2007年6月27日 (水)
2007年6月20日 (水)
2007年6月10日 (日)
北寺尾「町のはらっぱ」
「町のはらっぱ」と名前のついた土地を北寺尾の地図に見つけ、不思議に思った。「はらっぱ」とは本来地図に載らないような空地だと思っていたからだ。実際に行ってみると、確かにそこは空地であった。ゆるい傾斜があるむき出しの地面に、膝まで伸びた雑草がそよいでいる。しかし周囲をぐるりとフェンスで囲われ、2つの狭い入り口以外は侵入出来ないようになっている。入り口には町内会の注意書きの看板がかかっている。要するに「はらっぱ」風に作られた管理された公園であった。
少し寂しい気もしたが、ベンチもない広場に直接腰を下ろすと、だだっぴろい空間を存分に楽しむことができた。
(写真:「町のはらっぱ」の入り口に至る道。街路樹が撤去されずに残っている。)
2007年6月 5日 (火)
キリン横浜ビアビレッジ(キリンビール横浜工場)
生麦にあるキリンビール横浜工場の土地はもともと広大な貯木場であった。しかし中区に貯木場が整備されるとともにその機能を失い、埋め立てられていった。そしてその跡地に関東大震災で壊滅的な打撃をうけたキリンビール山手工場を移転させたのである。岸谷や子安台の土砂を使って貯木場を埋め立てる工事は当時大変なものであったようだ。しかし大正15年の開設以来、80年以上たった現在でもこの横浜工場はキリンビールの主力工場として稼動し続けている。
なお昭和の初めまで存在した鶴見川沿いのカスケードビール(寿屋・現在のサントリー)を廃業に追い込んだのは、このキリンビールの生麦進出も一因であったらしい。閉鎖された後、カスケードビール工場の従業員の多くはキリンビールに雇用されたということだ。
(絵:工場の敷地の一部はキリンビアビレッジとして市民に解放されている。公園の木々の向こうに巨大な貯蔵タンクが見える。写真:ビールの講習会や工場見学も行われている。要予約。)
2007年6月 1日 (金)
朝陽山八幡宮(ちょうようざんはちまんぐう)
花月園入り口の右手の小山に、生麦北町の氏神として祭られている八幡神社がある。創建は不明だが、元禄年間の文献にはすでに記載があるようだ。かつては山頂から生麦浦の眺望を楽しむことが出来、また海上にいた猟師達からも帰帆のよい目印とされていたらしい。
しかし現在は、埋め立てられ遠くに後退した海上からはもちろん、すぐ傍のバス通りからも社殿は見えない。見えるのは鬱蒼とした木々の塊だけである。2年ほど前は古い石段を登り頂上に行くことが出来たのだが、現在では入り口の鉄門扉で遮られ中に入ることすら出来なくなっている。
この神社はこのまま森の中に埋もれてしまうかのようだ。
(絵:手前の鳥居は江戸時代の制作だが、石組みがずれており、通り抜けには注意が必要である。左の道は鶴見および東寺尾東台へと続いている)
2007年5月24日 (木)
2007年5月19日 (土)
花月園弁天堂の史跡
花月園競輪場の駐車場の奥、競輪組合の建物の横に小さなグラウンドがある。このグラウンドはかつて「花月園」の「スワン池」であった場所だ。ボート遊びの出来るスワン池の周りには、当時の著名な画家達の絵馬が奉納された「絵馬堂」の回廊が巡らされ、その典雅な風景を見下ろすように石造りの高台の上には「弁天堂」が建てられていた。70年前に閉鎖された遊園地の跡が残されている数少ない箇所だ。
競輪場の開催日ともなると、駐車場に入りきれない車はこのグラウンドに誘導されているようだが、石造りの高台だけは鶴見の遺産として保存してほしいものだと思った。
(絵:雑木林に埋もれる史跡。脇の階段は今でも上ることが出来るが、弁天堂が建てられていた跡地には草木が生い茂り、眺めを楽しむことは出来ない。)
2007年5月13日 (日)
「花月園」
新橋の料亭「花月」の経営者だった平岡広高が鶴見の台地に作った児童遊園地の名を「花月園」といった。その開園の経緯が『花月園弁天堂絵馬集』の前書きに記されている。
「園主欧米を漫遊し、たまたま仏国パリの郊外に特設された児童のみの遊園地に散策し、その設備一つとして児童本位のものならざるはなく、視るもの聴くもの食するもの皆留意到らざるなきに、痛く驚嘆させられたのであります。更に同園には救護所をも常設し、医師看護婦等を置きて万一に備え、かつ掃除その他衛生施設が行き届いて紙屑一つ散乱せざるを見、しかも我が日本にはこの種の遊園地絶えて無きを顧みて、転た羨望に堪えませんでした。」
大正3年花月園は開園した。当時最先端の大遊園地は隆盛を誇り、最盛期の来園者は年間100万人、敷地は7万坪にまで拡大したが、平岡の理想はさらに高みにあった。
「理想の拡張、即ち十五、六万坪にして国有公園を凌駕する如きものとなすにはまだ尚四五百万円を要するのです。どうかこの老人の宿願を遂げさせられんことを江湖識者に懇願いたす次第であります。」
子供の健全な育成を願いその王国の完成を目指した花月園は、その後不況の影響などにより、昭和8年多額の借財のため平岡の経営より離れ、昭和14年に閉鎖となった。今ではその名前のみが跡地に作られた競輪場に受け継がれている。
(写真左:花月園競輪場の入り口に立つ案内板。写真右:現在の京急花月園前駅。「花月園前駅」はもともと工事費用を花月園側が負担する形で大正4年に作られた駅である。)
2007年5月 5日 (土)
2007年4月30日 (月)
三角形の土地(市場富士見町)
市場や潮田など近代になってから直線で区分けされた地域には、その隙間を埋めるような三角形の土地が出現することがある。市場公園もこうした土地の一つで、見事な三角形を成しているが、公園の対角にある土地も大変印象的である。一辺20m前後の正三角に近い土地は石垣で区分けされ、盛り土した敷地の中にチェスの駒のように5本の木が植えられているのだ。利用するのが難しい尖った角地は、昔から地蔵が祀られるなど特殊な空間として使われることが多かったのだよと大学で教授から教えられたことがあるが、正にその説明に当てはまるような一種独特の空間であった。
(市場富士見町の三角形の土地。木登りして遊べる雰囲気ではない。国道15号を挟んだ向かい側の市場大和町にも全く同じ形の土地があるが、こちらは樹木だけでなく花も植えられており、明るく開放的であった。)
2007年4月22日 (日)
「法隆寺前」
鶴見駅から41系統のバスに乗ると、港北区に入る手前で「法隆寺前」というバス停を目にすることが出来る。その先の交差点にも「法隆寺」の名がある。あの有名な法隆寺と同じ名前の寺院があるのだろうか。興味が沸いて探してみると、交差点の崖下が連福山法隆寺の境内であった。住所は港北区菊名4丁目である。山門前には堂々たるイチョウの木があり、意外にも広い境内は整然として落ち着いた雰囲気を醸し出している。
早速港北図書館に行き『港北区史』を開いたが、しかし何故かこの寺の記述を見つけることが出来ない。司書の方に教えていただき、散策用の小冊子の中にようやくその名を見つけたが、『横浜市史稿』や『新編武蔵風土記稿』にも載っているこの寺院の扱いは、港北区の資料の中では必ずしも大きいものではなさそうだ。
(絵:法隆寺本堂。寺の創立は不詳だが、日蓮宗としての開山は16世紀である。「安房国小湊誕生寺ノ末」とあり、奈良の法隆寺との関係は無いようだ。)
2007年4月17日 (火)
2007年4月10日 (火)
2007年4月 6日 (金)
2007年4月 1日 (日)
【一周年ご挨拶】
「鶴見区ぶらり絵日記」も本日4月1日でちょうど一周年となりました。累計アクセス数は19時時点で4605件です。ご覧いただいた方々に、心よりお礼申し上げます。
一年を通してブログを続けるということは、自分が思った以上に労力を要する作業でした。それでもここまで続けてこられたのは、鶴見の魅力にとりつかれたからと言う以外にありません。
鶴見の最大の魅力は、「未開発な土地」であったということです。入り組んだ谷戸と鶴見川に挟まれた生産性の低い土地は有力な武将などを輩出できず、江戸時代もまた天領と旗本領とに細切れに支配されていたため、注目すべき華々しい歴史は存在しません。農民と農民の間に起こる争いと和解、自然災害との戦い、権力への服従と反発等、庶民の生活がそのまま鶴見の歴史を形成しています。その庶民が、明治以降浅野総一郎らによって進められた工業化の波にのみ込まれながらも、その生活を今日まで連綿と続けています。地元の郷土史家が残した書物を丁寧に読んでいると、まさに「民衆」の本質を知ることができたかのような面白さがあります。
これからも自分自身楽しみながら、鶴見の面白さを紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお付き合いください。
(写真:スケッチブックも3冊目になりました。真夏日のスケッチをどう乗り切るかが今年も頭の痛い課題になりそうです。)
2007年3月28日 (水)
鶴見区区制80周年
現在 の鶴見区は、江戸時代には16の村(※)に分かれていた。明治22年、町村分合改称令により鶴見川河口の生見尾(うみお)村(後に「鶴見町」に改称)、鶴見川以東の町田村(後に「潮田町」に改称)、山間部の「旭村」の3村にまとまった。さらに大正14年、鶴見町と潮田町は合併し、新しい「鶴見町」となった。鶴見川で分かたれた鶴見と潮田は、江戸時代にはそれぞれ神奈川宿、川崎宿と別々の助郷村に指定されていたこともあり、距離は近くともさほど緊密な縁があったわけではない。特に鶴見は生活用水を溜池に頼り、潮田は川崎方面から引かれた二ヶ領用水を利用していたため、水の利用から考えれば潮田は川崎市への縁が深かった。鶴見と潮田が合併したのは京浜地区の埋め立てに伴い急激に工業化、商業化が進み、工場労働者が両地区を頻繁に往来するようになったためである。しかし人口の増加とともに深刻な水不足にも悩まされるようになった。
昭和2年、鶴見町は旭村とともに横浜市へ編入した。工業地帯として発展する鶴見を編入させたいとする横浜市の申し出に対し、鶴見側が編入の条件として申し入れたのは、昭和2年9月までに水道の敷設をすることであった。横浜市はこの条件を承諾し敷設は完了した。同年10月、横浜市は区制を施行する。「横浜市鶴見区」はこうして誕生したのである。
(絵:鶴見駅東口にある獅子頭の共同水道栓。区制80周年の今年、横浜市との合併の契機となったこの水道施設にもう少し光を当ててもいいのではないか。)(※港北区の誕生により師岡地区は分区)
2007年3月21日 (水)
2007年3月15日 (木)
『横浜木材史』
『横浜木材史』(師田滝三著 昭和33年7月 横浜木材業協同組合出版)は、江戸時代に深川の木場を拠点として確立していた木材業が、明治以降横浜にも発展していく様子が書かれている。木材業を通して横浜の近代商工史を知ることが出来る、大変勉強になる本だ。特に関東大震災後の輸入木材の増加に対応して計画された「横浜市営貯木場」の設置の経緯は、一読の価値がある。
市営貯木場は、その設置場所を東京に近い鶴見沖とするか、横浜木材界の有力者が押す新山下町とするかで意見が分かれてしまった。昭和3年、東京外国木材協会が大反対していた新山下町にて承認されると、東京側は外材の輸入を「東京直航」とする決議を出した。「横浜港を使用しない」という決議に非常な衝撃と恐慌をきたした横浜側は、貯木場の経営権の7割を東京側に譲渡する旨の提案を出す。この提案でどうにか東京側との調整がつき東京直航は回避されるが、その際東京外国木材協会の幹事会が出した声明書が面白い。
「そもそも東京直航論と横浜提携論とは表面上大なる径庭あるが如きも、その根本目的は何等異る処なく、ただこれに到達する経路に相違あるにすぎず。・・・例えば足強き者は険路を直進して早く目的地に達せんとすれども、足弱き者は一見多少は遅く思わるるも平坦なる道を選び完全なる行程を希望すると同様なるべし。・・・共存共栄の精神により横浜側と強調し、直航に近き効果を収めて完全なる経路を採るは、至当の処置なるもの事を確信するものなり・・・」
こうして様々な利害や対立を乗り越え、どうにか貯木場が本格的に運用開始された昭和10年には、すでに震災による特需が終わり、日本国内への米材の輸入は激減の一途をたどってしまっていた。
2007年3月10日 (土)
もう一つの「ゆたか橋」

鶴見区の地図を見ると、小野町の鶴見川沿岸で不自然に切れている道をみつけることが出来る。実はかつてここから対岸の生麦を結ぶ「ゆたか橋」という釣り橋が存在していた。竣工は昭和8年1月。数年後に暴風雨で破壊されたということだが、昭和14年の地図にはまだ存在している。現在この場所に行ってみると一面を更地にして工事が始まっており、切れた道の先端を確認することがすでに出来なくなっていた。対岸の生麦側でも護岸工事が進んでおり、その痕跡らしきものはない。川岸に降りるために作られた新しい階段が、おそらくかつての橋の位置にあたるのではないかと思われるだけであった。(絵:対岸の生麦側には名物の「貝殻を敷き詰めた川辺」が見えたが、護岸工事が進めばそれもまた失われそうな気配である。地図左:現在の鶴見区の地図。地図右:昭和9年の地図。)
2007年3月 4日 (日)
豊橋
前回の緑橋を見に行く途中で偶然に見つけた別の橋がある。「豊橋」である。旭運河と平行して設置されている石の欄干は、なんと片方しか残されていない。存在するべきもうもう片方の側には入船公園の街路樹が並んでいる。欄干の下を覗くと窪んだ地面が見える。
昭和9年の地図を見ると、入船公園はかつて巨大な貯木場であったことが分かる。豊橋の下には運河と貯木場をつなぐ水路が存在していたのだ。鶴見は船便、川便、陸路とも交通の便がよく、また大正期からの埋立地に進出した大企業の工場労働者向けの住宅供給のために、昭和初期には製材工場や木材店が多く立ち並んでいたという。その後貯木場であった場所は日本鋼管(株)鶴見製鉄所となり、昭和60年には現在の入船公園となった。その過程で池はおろか水路も埋め立てられ、橋の片方の欄干も外されてしまったようだ。
(地図:「鶴見木材会社池」の表記が見える。この会社の詳細は不明である。鶴見区内での木材業者が共同で使用していたのであろうか。)
2007年2月25日 (日)
緑橋
鶴見区の明細地図を眺めていると、旭運河に架けられた「緑橋」という橋が目に入った。工場地帯に「緑」という名が何故付けられたのだろう。この橋を実際に見にいくことにした。
末広町にある緑橋の入り口は、古びた鉄の扉で閉められており進入禁止となっていた。「コークス専用車出入口により、一般車の駐停車はご遠慮ください。東京ガス(株)鶴見工場」と書かれた錆びた看板がかかっている。東京ガスのホームページを見ると、橋の向こう側にある「鶴見事業所」に関する記事が載っていた。鶴見事業所は昭和5年から平成9年まで約67年間、東京ガスの主力工場として稼動していた。しかし平成になってからの調査で、石炭を主原料とした都市ガスやコークスの製造過程で生成される化学物質が土壌に漏洩していたことが判明したというのである。(周辺の海水への影響はないとのこと。)現在ではガスの主原料がクリーンな天然ガスに変わったため、同様の汚染物質は発生しないと書かれていた。
昭和の高度成長期の時代、幾度となく利用されたこのであろうこの橋は、平成19年の現在、もう使われてはいないのかも知れない。ガスの原材料が環境に配慮して変わるとともに、「緑」と名のついたこの橋の主な役割も終わってしまったのだと、入り口の閉ざされた門が伝えているように思えた。
2007年2月18日 (日)
2007年2月10日 (土)
【番外編】港北区ぶらり絵日記:亀甲山(かめのこうやま)
小机城址から約1km離れた亀甲山は、亀山ともいう。頂上が平坦で亀の甲の形に似ていることからこの名がついたようだ。15世紀、小机城址に立てこもる山内上杉氏の一族を攻めるため、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏家来の太田道灌が陣を構えたのがこの亀甲山である。鶴見川を挟んだ丘の上に、戦国武将たちが陣を構えて睨み合うというドラマチックな歴史が、この新横浜地区で繰り広げられていたとは大変感慨深い。しかし丁寧な案内板が設置された小机城址とは対照的に、この亀甲山では一切の遺構を見ることが出来なかった。丘の頂上では新しい企業団地を建設するための工事が行われており、なんとも無粋な光景である。道灌が小机城攻めの際に詠んだという歌碑などを設置すれば、対岸の小机城址の歴史にも一層の深みが加わると思えるのだが、残念だ。
(太田道灌の歌「小机は、先ず手習いの初めにて、いろはにほへと、ちりぢりとなる」小さな机は、字の練習を始めるときに使うもの。いろはの文字を書くように戦いも簡単に終わってしまう。小机城もすぐに落ちる、の意味)(写真左:亀甲山。写真右:亀甲山の麓から見える鶴見川対岸の小机城址)
【番外編】港北区ぶらり絵日記:小机城址(こづくえじょうし)

小机城址は、小高い丘の上に「空堀」(からぼり)が残されている中世の城跡である。竹林の中に作られた散策路を歩いてみると、地面には枯葉が降り積もりスポンジのように柔らかい。このままにしていれば翌年には新しい芽が出て、空堀もまた森の中に埋もれていってしまうことだろう。今日まで何百年も前に作られた遺構が保存されているのは、何年にもわたる土地所有者の方々の努力の賜物である。
現地の案内板には、小机城がおそらく12世紀以降に造られたものであること、当時この地域の有力者である上杉氏と関わりのあった城であろうと解説されていた。1489年、山内上杉家の家督争いにより、鶴見川を挟んで対岸にある亀甲山(かめのこうやま)に帯陣した大田道灌と戦い、落城。その後関東の支配者となった小田原北条家の領地となるが、その北条家が滅びた後、徳川家の家臣として知行を与えられた城主が退出してしまうと、小机城は廃城となりその歴史を閉じたと結ばれていた。 (絵:溝のように掘られた空堀。深さは10メートル前後に及ぶ。)
2007年2月 5日 (月)
【番外編】港北区ぶらり絵日記:亀甲橋(かめのこうはし)
港北区の小机町と新羽町を結ぶ亀甲橋(かめのこうはし)が最初に架けられたのは大正時代である。230クラブ出版の「新羽史」には、土橋の頃の亀甲橋が洪水によって流されてしまった写真が載っており、増水の最中に行われる消防団の復旧作業は命がけものであったと解説に書かれている。
現在この地域では「新横浜ゆめオアシス」と名づけられた多目的遊水地が建設中である。完成すれば戦後最大規模の雨量でも安全に流下させることができるという。平成14年に架け替えられた新しい亀甲橋を歩いてみると、真下に流れる鶴見川は大人しいせせらぎを見せていた。最近では築堤が進められたことにより、浸水被害などのニュースもほとんど聞かれない。広大な遊水地は何とも大げさであるように思えたが、しかし幾たびもの洪水によって人命と財産が失われたこの地域の歴史を学んだ後は、目の前の公共工事もまた必然のものかと考え直した。
(労災病院から橋を望む。溜池のある遊水地、その先に鶴見川の土手と川がある。すべてを跨ぐ亀甲橋は全長400m前後もある。橋の右側の丘が亀甲山である。)
2007年1月29日 (月)
2007年1月21日 (日)
2007年1月14日 (日)
熊野神社(市場)
市場東中町の熊野神社である。江戸時代の絵図にも描かれているこの熊野神社は、弘仁年間(810年~)に創建されたのが始まりであるという。広い境内と、入り口の大きな石の鳥居、奥の社殿に向かうまでの長い参道は今までに訪れた他の熊野神社(寺谷・北寺尾)の中で最も格式を感じさせる。しかし人通りの多い商店街の端にありながら、人影がほとんど見えず、不思議と寒々しい雰囲気が漂っていた。(写真:江戸時代初期には鶴見川西方にあったが、その後現在の妙高企業付近に遷座した。東海道の絵図には市場村よりやや離れた位置に「熊野権現」と表記されているのが分かる。このあたりの地名を「元宮」というのはその名残である。その後さらに二度遷座し現在の場所となった。)
2007年1月 7日 (日)
箱根駅伝

国道15号線近くに住むようになってから、ほぼ毎年箱根駅伝を観戦している。今年は往路で観戦した。TVで選手の現在位置を確認してから8時半過ぎに家を出ると、すでに沿道には付近の住人達が大勢集まっていた。警察官が手動で信号を変え、交通整理に当たっている。隣の車線を走る車の運転手がそわそわと顔を動かしているのが見える。選手達が生麦に到達したのは朝の9時頃であった。必死に走ってくる選手全員に、主催の新聞社から渡された無料配布の小旗を振って声援を送った。今年は車両に先導されて走る1位の選手と、その後に連なる2位以下の選手の間に大分差が開いているように感じたが、箱根では1位が替わっていたというのだからわからないものだ。今年もまた正月恒例の行事に参加できたような充実感を持って家に帰った。ふと見ると、先ほどの小旗には、懸賞に参加できる応募券が印刷されていることに気がついた。一等は箱根のホテルの宿泊券である。当たれば嬉しいお年玉である。しかし「ご応募いただいた個人情報は、新聞の購読のお勧めなどに利用させていただきます」の小さい文字も印刷されていた。嬉しいことばかりではないようだ。
(写真左:生麦時点での1位、東海大学 写真右:往路1位となった順天堂大学)
2007年1月 1日 (月)
【謹賀新年】生麦魚河岸のイカ
年末、日曜の朝早く生麦河岸に出かけた。市場の店にて袋詰めにされた生きたイカを見つけ、珍しさのあまり購入する。一杯2000円以上の値段である。「うちは魚屋のルイ・ヴィトンなのよ」というお店の人の言葉が印象的である。別の店で鯵2匹と漬物を購入し担いで帰る。ひらひらと動く頭のヒレが興味深く、しばらく観察していたが、結局は家人に捌いてもらうことにした。イカはこれでもかというくらいに水を吐き最後は墨を吐いて抵抗する。胴体から足が引き離される時にそれまで透き通っていた体の表面が赤く変色する。その赤くなった薄皮をさらに身からはがす。「足の先まで旨いよ。」というお店の人の言葉を再び思い出しながら、最後の一切れまで満足して食した。しかしすべてが自分の胃の中に入っても、しばらくはイカの不思議な動きが思い出されて仕方なかった。
(写真の後の「 」内の英文字をクリックしてください。イカの映像が流れます)
2006年12月23日 (土)
『関東地名物語』(「谷」地名の研究)
「なぜ東京周辺の地名は「谷」を「タニ」や「コク」と読まず、「渋谷」や「市ヶ谷」のように「ヤ」と読むのだろう?」この素朴な疑問から「谷」地名に喰らいついて書かれた本である。
「ヤ」「ヤト」「ヤツ」は もともと「ヤチ」も含め、すべて「草の生えた低湿地帯」を意味する同系列の言葉であったが、稲作が広まると、丘陵から水が染み出ている山合いの狭い平地を水田として開墾するようになり、この土地を「ヤ」「ヤト」もしくは「ヤツ」と呼んで、「ヤチ」とは区別するようになった。次第に水気のないところでも、山に入り込んだ狭い土地や集落を指す一般的な名称として定着した。その形状が「谷」と似ていたことからこの漢字を当てるようになったのではないかと書かれている。「ヤ」は関東地方全般で見られるが、「ヤト」は主に神奈川県が中心で「谷戸」と表記されるときもある。「ヤツ」は房総半島中部および神奈川県の鎌倉周辺にみられ、「谷津」と表記されることもある。群馬県においては「谷戸」と表記するものの、これを「カイト」と読むことが多い。語源については、柳田国男のアイヌ語説を否定し、「yat」(ヤッ)と発音する祖語が東言葉(あずまことば)にあったのではないかと推察しているが、何故地域によって使い分けられるようになったのかははっきりとは分からない。
本の帯には「古代関東の地名が見えてきた」と仰々しく書かれているが、物語と呼べるものは一切無い。谷地名についての調査を羅列したメモ書きような本である。大変読みづらくはある。しかし一つの地名に徹底的にこだわる研究家の底力を感じさせる本であった。(山田秀三著『関東地名物語』)
2006年12月14日 (木)
【番外編】伊豆下田ぶらり絵日記:下田海中水族館

伊豆下田は黒船来航にて知られる港町である。横浜より踊り子号に乗車すると、熱海から伊豆半島の先端までの道のりが大変に長いことが分かる。ミカンの木が茂る海辺の風景が続いていく。
下田に到着したがあいにくの雨天となったため、本日のスケッチは取り止めとし、かわりに海中水族館に出かけることにした。自然の入り江の中に作られた水族館である。しっとりと雨に濡れる岩山を背景に見たイルカのショーは、一時寒さを忘れさせてくれるほど面白かった。だがこの水族館で最も印象に残ったのは、帆立貝を食べるラッコの姿である。自然界のラッコは腹の上に乗せた貝殻を石で割って食べるのだが、この水族館ではラッコに石を持たせていない。帆立貝を与えられると水槽のガラスで貝殻を叩き割る。ガラスの方にヒビが入るのではないかと思えるほどの大きな音を立てる。衝撃で貝を落とすこともない。あの前脚の握力はどのくらいなのだろうか。
2006年12月 8日 (金)
鶴見川水難者慰霊供養塔
鶴見川橋近くの川べりに水難者の慰霊塔が建てられている。樹木に覆われた石碑は人目につきにくく、不気味な雰囲気さえ醸し出している。
「鶴見歴史の会」発行の機関紙「郷土つるみ」に、この塔の建立の経緯があった。もともと鶴見川は葦(よし)が多く生えており、水難者の遺体がその繁みに入り込むと発見された際にはすでに白骨化していることが多かった。その身元不明の死体を「お骨さま」として葬っていたが、この無縁墓に詣でると眼病が治るという話が伝わり、一時は参詣者が溢れるような状態になった。しかしやがて信仰は下火となり、関東大震災や堤防工事などで「お骨さま」の墓は川底に沈んでしまった。昭和55年に地元の方がこの墓を供養塔として復活させ盛大な供養が行われたというのだ。
塔の裏面にはこの塔を建てた地元の方の名と「建設省」の鶴見出張所長の名前が彫られていた。昭和54年、建設省によりすぐ上流の個所でのショートカット(川の蛇行を直す)工事、および排水ポンプ場の設置が行われている。この供養塔を復活させたのは、大工事の竣工記念の意味が込められているのであろう。
2006年12月 1日 (金)
別所熊野神社
北寺尾の高台にある熊野神社は、この地域の字名を冠して「別所熊野神社」と呼ばれている。参道となる石段は狭く急であるが、高台まで上りきると境内は解放的で、犬を連れた人が頻繁に通り抜けていく。社殿脇に神社の由緒の彫られた石碑が建っている。この神社が子供の百日咳に霊験があること、『新編武蔵風土記稿』に記述されていること、境内の御水舎に「慶応二年」の銘があること、戦災で社が焼失した際は社地中腹に横穴を堀り御祭神を奉安したこと、昭和50年に社殿が本格的に再建されたことなどがびっしりと書かれている。その内容もさることながら、どっしりとした石碑とその後ろに立つ比較的新しい社殿を見ると、時代を継いでこの神社を支えてきた氏子達の存在を感じることが出来た。
2006年11月22日 (水)
駒岡ふれあいの樹林
駒岡ふれあいの樹林は、駒岡堂ノ前公園の脇にその入り口がある。しかし獅子ヶ谷市民の森や馬場2丁目公園と同じく、下草を払って散策可能にしただけの雑木林は、当然のことながら人気は全く無い。階段状につくられた散策路を上ると、奥は鬱蒼とした竹林でとなっていた。
実は今回、後から入ってきた子供達が、この乾燥した竹林で焚き火をはじめようとするのを目にして、あわてて注意することとなった。見知らぬ大人に叱られて子供達はショックだったようだが、私も奇妙な気分だった。いつの間に自分は、大人から叱られる側の子供でなく、子供を叱る側の大人になっていたのだろう。一人で気楽なスケッチに出かけたはずなのに、複雑な思いを抱えて帰ってくる結果となった。
2006年11月16日 (木)
『俳句のつくり方』
私は今まで俳句には全く門外漢で、特に強い興味もなかった。この風景スケッチのブログに俳句でも添えることが出来たらと思い立ち、軽い気持ちで水原秋桜子の『俳句のつくり方』を読んでみた。そこに書かれている注意6条は以下の通りである。
(イ)詩因(これを詠んで見たいと思う題材)を大切にすること。
(ロ)一句に読み得うべき分量を決めること。
(ハ)省略を巧みにすること。
(ニ)配合(組み合わせ)に注意すること。
(ホ)用語は現代語。(意味の通じやすい表現にする)
(ヘ)丁寧に詠むこと。(時間をかけて推敲する)
語句を少し変えればすべて「風景スケッチの描き方」にも当てはまることに驚かされる。おそらく文芸・音楽・舞踊などあらゆる創作物を生み出す際の極意とは上記の6条に尽きるのかもしれない。その教えを自ら示すかのように簡潔に分かりやすく書かれたこの本は、大変に勉強になる入門書であった。
しかし残念ながらその俳句の門に入っていくことは出来なかった。というのは肝心の「俳句の鑑賞」が私には出来なかったからである。添削実例の章で「以前よりずっとよくなったでしょう」と直されたその句が以前より本当によくなったのか、今ひとつ呑み込めない。かといって、直される以前の句の方が好きだという自分なりの感想を持つこともない。「そういうものなのか」と頭で理解しようとするのが精一杯の私には、俳句の種がないのかも知れない。(『俳句のつくり方』(実業之日本社出版)昭和35年初版。平成16年第53版。超ロングセラーである)
2006年11月 8日 (水)
鶴見川橋
鶴見川橋は元の名を「鶴見橋」という。慶長年間、東海道が整備されると同時に架けられた大変古い橋だ。しかし大正時代に第一国道(現国道15号)が開通し、約400m河口に当時最新式のコンクリート製の橋が架けられると、「鶴見橋」という由緒ある名はそちらに付けられることとなってしまった。
鶴見川橋は平成8年に架け替えられた。橋を渡る歩行者には威圧的にすら感じる巨大で白いアーチが、遠目には大変優美に映える。かつて「東海道」と呼ばれた歴史の道に架かる橋としてはいささか近未来的すぎると感じないでもないが、一方の「鶴見橋」が、今やどこにでもある車両道路の橋として埋没してしまっている現在では、少なくとも人々に何がしかの印象を与えることの出来るこの「鶴見川橋」こそがやはり鶴見の橋と名乗るにふさわしいのであろう。
2006年11月 1日 (水)
2006年10月25日 (水)
馬のメド坂
馬場2丁目の尾根づたいに通っている坂道は、「馬のメド坂」と呼ばれる古道である。この尾根の地形が馬の背骨に似ており、坂道の入り口が馬の尻のメド(穴)のように見えたためという説や、寺尾城の武士が馬を引き入れるときに使った馬道(めど)であったためという説など、坂の名前の由来は諸説ある。かつては森の中にポッカリと開いたトンネルのような山道であったようだ。
今でも馬場二丁目公園と馬場花木外園区に挟まれた箇所は、鬱蒼とした木々に覆われている。雑木林のような公園には人気が無く、防犯上も不安を感じるが、くねくねと曲がるこの細い道を通り抜けていく人々は意外にも多い。古道は今なお地域の生活道として生きているのだ。
2006年9月29日 (金)
西田書店
西田書店は、とよおか通り商店街にある古書店である。「ブックオフ」に代表されるような「新しくて汚れていない本」しか扱わない最近の古本屋に慣らされていると、入店した瞬間軽いカルチャーショックに見舞われる。店内にはうずたかく積まれた本が、整理されているようなされていないような状態で置かれているが、「新しくて汚れていない本」はほとんどない。絶版本、一般販売していない本、展覧会で刊行された冊子類などで埋め尽くされているのだ。薄暗い店内には大抵1人か2人の客がいて、私が出て行くと入れ替わりに別の客が入ってくるような按配である。ホームページも用意されており、「まだ登録していない在庫が数十万点あります」と書かれているが、本当なら鶴見図書館の「蔵書約9万点」を越えている。実際私が地元の歴史を調べるにあたって、最も頼りにする本屋である。
本日は30年前に出版された小学生用の「神奈川県の歴史」という単行本を300円で入手した。県史の概略を掴むには実に手ごろな本である。こうして狭い自宅のマンションに、西田書店でしか取り扱わない本が少しずつ増えていく。嬉しくもあり、いつか入りきれなくて破綻するのが怖くもある、葛藤の続く毎日である。
2006年9月18日 (月)
【番外編】大阪市鶴見区ぶらり絵日記:安田中の橋
大阪市鶴見区は河川が多く、水路が発達していた。この水路は「井路(いじ)」と呼ばれていた。川崎市内や横浜市鶴見区の鶴見川以東で二ヶ領用水が発達していたことと、奇しくもよく似ている。現在この井路の名残があるという安田地区に行ってみた。狭い水路が確かに家々の間にまだ通っているところがある。安田3丁目には「安田中の橋」という小さな橋がかかっている。橋の影や両岸の木々が水面に映る付近の景色は大変に趣きがある。
二ヶ領用水は、宅地化が進むと下水路となり、残念ながらほとんど埋め立てられてしまった。横浜市鶴見区内ではその痕跡すら探すのが困難な状態である。大阪市鶴見区では、この趣ある光景が失われないことをお祈りする。
【番外編】大阪市鶴見区ぶらり絵日記:鶴見緑地
鶴見緑地公園は、鶴見区と隣接の守口市にまたがる100ヘクタール以上の広大な都市公園である。開園は昭和47年。平成2年には国際花と緑の博覧会(花の万博)が行われた。区役所でいただいた冊子には、鶴見緑地の前身は田んぼばかりの沼地であったと書いてある。現在ではその光景は全く想像できない。広い芝生の上では犬を散歩させたり、座ってピクニックを楽しんだりと、皆思い思いの楽しみ方をしている。
公園内にある「咲くやこの花館」は巨大な温室のある植物園である。中にある珍しい草花は楽しめるが、レストランや売店には一考の余地があるように思える。せっかく希少な植物を展示しているのだから、その施設内ではここでしか食べられない、買えないような新しい商品を置いて欲しい。(写真:咲くやこの花館内部の植物)
【番外編】大阪市鶴見区ぶらり絵日記
鶴見という名の区は、横浜市だけでなく大阪市にも存在する。このたび私用で大阪に行ったので、名前の縁深い大阪市鶴見区を散策した。
大阪市鶴見区は、大阪市の最東端に位置する。昭和49年隣接の城東区より分区して誕生した。人口は約10万人。区域面積は約8km2。散策にあたり、横堤(よこづつみ)駅近くにある鶴見区役所に行き、区内マップをいただいた。合わせて区内の歴史を写真で綴っている小冊子をいただく。もともと低湿地帯だったという土地に水路が発達した地域の歴史が紹介されており、大変興味深い。今回は時間が限られているため、北部の「鶴見緑地」と、東部の「安田中の橋」に行くこととした。(写真左:大阪市鶴見区役所 写真右:鶴見区役所前の標識 上に見える看板は区の花)
2006年9月16日 (土)
川崎市水道管橋

鶴見区の上末吉1丁目に、川崎市水道局の末吉配水所がある。川崎市の西長沢浄水場や潮見台浄水場にてつくられた「浄水」は、一旦市境を越え鶴見区の末吉配水所に送られ、再び川崎市の東南部に送られる。その川崎市への送水管は鶴見区上末吉2丁目にて鶴見川を渡っている。
水道管の上には、幅1mほどの人道橋が設置されている。自転車同士すれ違うのも一苦労するような狭さだが、人の往来は頻繁である。もしこの橋がなければ、川を渡るには上流の末吉橋か下流の新鶴見橋まで行かなければならない。どちらもここから10分近くかかる距離である。この水道管橋は、川崎市民にも鶴見区民にも大切な橋だ。(絵:対岸から配水所方面を臨む。写真:上末吉1丁目の末吉配水所。高台の上にある。)
2006年9月11日 (月)
西袋(にしふくろ)
上末吉2丁目の鶴見川際に、半径300メートル弱の半円形に湾曲した市道が通っている。この道はかつての鶴見川の跡である。川の内側の土地は、その袋状の形の通り「字 西袋(あざ にしふくろ)」と呼ばれていた。江戸時代、洪水を防ぐため、この西袋にて蛇行していた川筋を直結するという大工事が行われている。
工事が終わった後も、昭和17年まで西袋は川向いの矢向村の飛び地とされていた。しかし上末吉に組み入れられた現在、曲がった細い道路以外にこの土地の由来を示すものはない。せめて敷地内の公園にでもこの興味深い字名を残すことは出来なかったものか。「上末吉二丁目第二公園」とはなんとも行政的な名前であるように感じる。
(絵:公園の端の遊歩道。地図左:明治14年の地図。蛇行していた痕跡がある。地図右:現在の地図)
2006年9月 2日 (土)
馬場二丁目公園
馬場二丁目公園は、公園とは名ばかりの「林」である。下草だけは払われているようだが、その代わりに青々と茂る木々から落ちた葉がそのまま枯葉となって積もっている。人気はほとんどなく、「不法投棄禁止」の看板がかけられている。この公園と、向かいの馬場花木外園区に挟まれた林の中の道が「馬のメド坂」といわれる古道である。古道の入り口には案内板が立てられているとのことで探したのだが、今回は残念ながら目にすることが出来なかった。
「公園」と名のつくところは、大抵人工的に整備されている。子供達や親子連れには安全で遊びやすい場所であるが、絵を描くには面白みがないとも言える。しかしこの馬場二丁目公園付近は再度探索したいと思える場所であった。馬のメド坂もその時にもう一度スケッチしてみたい。
2006年8月29日 (火)
響橋(ひびきばし)
国道1号線(第二京浜)にかけられた響橋(ひびきばし)、通称「めがね橋」である。鶴見区のほぼ中央に位置している。
昭和16年に開通した響橋は、昭和15年に開催される予定だった東京オリンピック(日中戦争のため中止)に合わせて造られたものだ。巨大で優美なアーチと、その両脇の深い切り通しを見上げると、これが今から70年前に行われた工事であるかと改めて驚かされる。炎天下、聖ヨゼフ学園の生徒達がその傍の歩道を歩いて行くのが見えた。いつか彼らが大人になったときに、毎日通ったこの橋を懐かしく思い起こすのであろう。(絵:高さ13メートル。幅48メートル。鉄筋コンクリートモルタル仕上げ。橋の上が臨港バス、下が市営バスの運行ルートである。)
2006年8月24日 (木)
カスケードビール工場跡
新鶴見橋からみえるカスケードビール工場跡である。「カスケードビール」を売り出した日英醸造は、昭和3年寿屋(現サントリー)に買収され、昭和5年「オラガビール」という新ブランドのビールを売り出した。しかし売り上げ不振により数年で販売は中止され、サントリーは一時ビール業界より撤退。かつての工場は現在全く別の企業が所有しているが、事実上「廃墟」に近い状態のようだ。
非対称でレトロなデザインが大変めずらしい。本来もっと見栄えのする建物のはずだが、放置された外壁の痛みが激しく、周囲の倉庫やマンションに埋もれてしまうかに見える。JR鶴見線の国道駅でも感じたことだが、鶴見区内には昭和の息遣いが感じられる史跡が多く残っているのに、今ひとつ有効に活用されていない。この工場跡は廃墟マニアの間ではよく名前の挙がる建造物らしいが、やはり建物は有効に使われてこそ生きるものだ。
(昭和5年の鶴見区明細地図。当時は第二京浜が通っていなかったので新鶴見橋もかかっていなかった。川沿いの工場では鶴見川を使ってビール瓶などを運搬していたが、同時に洪水にも悩まされた。)
2006年8月17日 (木)
2006年8月 9日 (水)
電気の史料館
江ヶ崎町にある「電気の史料館」は、東京電力(株)の技術開発研究所に併設された博物館である。日本に電気が持ち込まれてからの120年の歴史をたどるように「実物大の電力設備」だけが展示されている。その展示品群の巨大さは、見た人に強烈な印象を与える迫力がある。
我々は身近に存在する電力設備を、普段ほとんど意識的に見ることはない。電気は現代生活に不可欠なものだが、その電気を生み出し送り出してきた設備に対する知識は生活する上で必ずしも必要なものではないからだ。しかし必要なものではないからといって「知らなくてよい」ことでもないのである。この博物館はある意味大変マニアックで個性的であるが、存在することの意義が感じられる施設である。(絵は旧千葉火力発電所1号タービン発電機。全長23メートル。写真は夏休み展「録音・再生の歴史を知ろう」にて展示されている蓄音機。夏休み展は8月31日まで開催)
2006年7月31日 (月)
助郷(すけごう)
江戸時代の「街道」といえば連想するのは「宿場町」であろう。この宿場町を支えていたのが「助郷(すけごう)」であるでことはあまり知られていない。宿場町は宿泊業務だけでなく継ぎ立て業務(次の宿場町までの荷物の輸送)も行っていた。助郷とは、この荷運びを街道沿いの農村へも賦役として課した制度である。鶴見区の村々は鶴見川を境として東側が川崎宿、西側は神奈川宿の助郷村として指定された。
江戸幕府によって、街道制度が整備された当初は交通量もさほど多くはなく、宿場の継ぎ立業務も機能していた。しかし政治体制の確立とともに社会・経済が発展すると、交通量が増加し宿場では輸送が賄いきれなくなった。そのために近隣の村々から人馬を強制的に徴集したのである。現代の貨物輸送をこの時代は人力で行っていたのであるから、負担は膨大であった。通常の年貢の他に年間を通じて人馬を徴集するこの助郷制度は、時代が下るにつれ村々を疲弊させ、各地で離散や一揆を多発させる原因ともなった。ことに幕末には東海道はもとより各街道で交通量が激増し、助郷制度は破綻寸前となった。変動する社会と活性化する商品経済は、宿場間のリレー方式の継ぎ立て輸送と賦役による労働力では既に対応できなくなっていたのである。 明治5年新政府によって助郷制度が廃止されると、その後は民間による陸運会社が設立され、新たな時代の交通システムが確立していった。
生麦村名主の『関口日記』にも、助郷の要請に対する苦労がたびたび記録されている。幕府の中央集権体制の基礎であった街道制度は、農民達の不条理とも言える負担の上に成り立っていたのだ。(写真は川崎宿の助郷会所跡)
2006年7月23日 (日)
樽綱橋
樽綱橋は港北区の樽町と綱島をつなぐ橋である。しかし樽町側の橋脚は実際には鶴見区駒岡に入っている。ちょうど区界なのだ。樽綱橋は黄色く塗装された目立つ橋だ。近くには鶴見川河口から8kmとの案内がある。鶴見川全体の長さから考えればこの橋は河口に近いと認識すべきだが、普段河口から1km前後の鶴見川の姿を見慣れている自分には、川幅が狭まり、両側の川辺には草葉が生い茂り、その緑を川面が映し出しているという樽綱橋付近の景色は、大変に上流の光景のように思えた。潮の香りのする生麦付近の鶴見川も別の魅力があるが、埋め立てによって本来の川を人工的に延長したことも事実である。樽綱橋に来て改めて鶴見川の自然を感じることが出来た。
2006年7月17日 (月)
弁天池
鶴見川は高低差が少なく海水が逆流しやすいため、農業用水として利用するには不向きであった。そのため鶴見では灌漑用の溜池が多く利用された。「寺谷大池」もそのうちの一つであった。しかし工業化が進むと灌漑の必要がなくなったため、池の一部を記念として残し、その他は埋め立てられてしまった。この残された一部が現在寺谷にある「弁天池」である。
直径は20メートルぐらいであろうか。周囲をぐるりとコンクリートで固められた「泥沼」のような池は、一見したところ住宅地に突然現れた「穴」のようだ。池の端には弁才天の祠があり、反対側から石橋で渡れるような造形は面白い。しかし子供の遊び場としては危険であるし、宅地化されたこの地域には太古からある池の方がむしろ不自然な存在となってしまっているのは否めない。
残されたこの池すらもこれから埋め立てられてしまうような予感のする光景であった。
2006年7月 5日 (水)
カミンでの出来事
鶴見カミンのレストランでの出来事である。隣の席に座るおばあさんが、若いウエイトレスに「お茶のおかわり」を頼んでいるのが聞こえた。彼女は食事を終えて食後にお茶が欲しくなったらしい。しかしこのウエイトレスは不慣れなのか、2度頼まれても「お茶のおかわり」を持ってこない。おばあさんはついにお店のマスターに頼んでお茶のおかわりをもらったのだが、その時つぶやいたのである。「最近の若い人は・・・お茶なんて飲まないのかしらね・・・?」 この言葉を聴いて、私は何故かホッとし、隣のおばあさんに好感を持った。レストランで客がウエイトレスにクレームを言っている光景を見ることは大変苦痛である。「注文を取りに来ない!」「注文を間違えている!」「料理がこない!」「料理が冷えている!」客はみな空腹のせいか「切れやすく」なっている。以前、後から入った別の客の料理のほうが先に出てきたという理由で、ウエイトレスを大声で呼びつけていたサラリーマンを見たことがあるが、そのような場面を目撃すると、私は自分の料理に全く集中できなくなってしまうのだ。しかしこの時のおばあさんは、ウエイトレスの不手際も自分の不満もすべてこの一言に収めてしまったように見えた。「最近の若い人は・・・食後に日本茶飲まなくなったのかなぁ・・?」なんとも見当違いなつぶやきではあるが、このような「老い」なら悪くはないと思った。
2006年6月25日 (日)
2006年6月18日 (日)
入江川せせらぎ緑道
入江川はもともと自然の湧水を水源とした川であったが、周囲の都市化が進むと生活廃水やごみが流れ込み、水質が汚濁し水量も枯渇してしまった。「入江川せせらぎ緑道」というのはこの汚れた川を埋め立てることなく、逆に下水処理後の水を流して整備した人工の小川と遊歩道である。東寺尾地区、馬場地区合わせて1.5km前後におよぶ。棲みついたザリガニをとろうと遊ぶ子供たちの姿や、小川の周囲に植えられた草花を楽しむ夫婦連れの姿が見うけられる。周囲の家々の庭に咲くアジサイなどの花々も彩を添えており、地域全体がこの遊歩道の景色を大切にしようとする心遣いが感じられる。
この入江川の上流区域は国土交通省の「甦る水 100選」に選ばれている。遊歩道の設置がもともと地元の要望であったのか、役所主導のものであったのかは不明だが、このように使われる税金ならば悪くないものだと思った。
2006年6月11日 (日)
蛇も蚊も祭り(じゃもかもまつり)
蛇も蚊も祭りは300年昔から続く生麦の祭りである。萱で編んだ巨大な蛇を担ぎ上げ「蛇も蚊もでたけー、日よりの雨けー」と掛け声を出して町内を練り歩いていく。担ぎあげるのは主に子供達である。今年は6月4日が祭りの日であった。朝の8時すぎ、祭りの行われる「神明社」に向かうと、その途中で蛇と遭遇した。この蛇は神明社ではなく1km離れた道念稲荷神社から出てきた蛇である。蛇は二つの神社でそれぞれ作られるのだ。「蛇も蚊もでたけー・・」と男性が声を上げるが、その声がマイク越しであるのが多少味気ない。子供達も慣れない掛け声に合わせて歩いている。一方、神明社の方では蛇はまだ頭も出来ておらず、これから編み上げはじめるようで、時間がかかりそうであった。
午後3時ごろ神明社に戻ってみると、蛇はすでに編みあがって町内をまわっており、社は閑散としていた。普段は閉じられている正面の扉が開いていたのでスケッチをした。しばらくすると掛け声とともに蛇が戻ってきた。神明社の蛇はなんと雌雄2体いる。先導するのはマイクを抱えた子供であった。朝見たものと同じような光景だが、一日歩き回った子供達には疲れていながらも奇妙な慣れと自信のようなものが見受けられた。最後はその2体の蛇を大人達がぶつけ合わせ、神主のお祓いの後3本締めで終わりとなった。蛇も蚊も祭りは横浜市指定無形民俗文化財に登録されているが、屋台が出るなどの派手さはない。生麦地区の住人によって受け継がれていく手作りの祭りなのだろう。(写真右:蛇をぶつけ合わせている。写真左:神主のお祓い)
2006年6月 3日 (土)
2006年5月29日 (月)
三ツ池公園 上の池
三ッ池公園は、もともと江戸時代に灌漑用水として利用された池を囲んだ30ヘクタール近い県立の公園である。以前訪れた二つ池と距離は近いが、金網で囲われているだけの二つ池とは違い、どの池もきちんと整備されている。特に今回描いた「上の池」は、「上の池」「中の池」「下の池」の三つの池の中でも最も人工的な手が入れられている池だ。しかし皮肉にも手前に敷きつめた大きな石が池に近づく階段の役目を果たしてしまい、「池に入るな」「釣りをするな」の看板を最も多くの人が無視している池となってしまっている。家族連れが小さな網や釣竿を持ってザリガニを獲っているのだ。
絵を描いていると、中年の男性に話かけられた。「一枚どのくらい時間かかるんですか」「2~3時間ぐらいですね」と返事をすると、「以前、NHKで山下清の人生を放映してたでしょう。もともと厄介者扱いされていたのに、すばらしい絵を描くようになったらみんなから急に拝まれてさ、あれは痛快、痛快だったなぁ」と話をして去っていった。
その後、私がスケッチを描きあげてもなお、男性はその場に遊びに来た子供や家族連れに話しかけていた。
2006年5月24日 (水)
2006年5月18日 (木)
2006年5月13日 (土)
2006年5月 5日 (金)
龍泉寺脇の階段
鶴見には坂道が多い。それはこの地域に鶴見川や生麦浦などの低地と、太古の火山灰によって形成された下末吉台地とが接近して存在しているためだ。その起伏にとんだ土地を、それぞれの時代に生きた住民達が長い年月をかけて踏みしめ作り上げた坂道は、コンクリートやアスファルトに覆われてしまってもなお独特の味わいがある。
岸谷の龍泉寺脇にある階段もそのような坂道の一つだ。二人で並んで歩くのが精一杯の細い階段は、数えてみると118段あった。1段が平均15cm前後だとしても、20m近く上がり下がりすることになる。お年寄りには辛い所だ。階段の端に設置されているステンレス製の手摺は、きれいに磨かれていた。つかまる人も多いのだろう。
2006年5月 4日 (木)
岸谷庚申(きしやこうしん)
庚申信仰は江戸時代に流行した民間信仰である。宝暦10年(1760年)に作られたという岸谷庚申は今でも龍泉寺の傍にある。石には青面金剛像と、踏みしめられる悪鬼、その下に見ざる言わざる聞かざるの三猿が彫られている。台石には「これより江戸の方 こいけさんひた(り)」(子生山(東福寺のこと)左)の文字がうっすらと読め、この庚申塔が道標も兼ねていたことをはっきりと示している。社もどっしりとした作りで、現在これほどの物を制作したらかなりの労力と費用がかかるであろうことが想像できる。かつての民間信仰の底力を見る思いだ。
しかし平成の現在、この社にはほとんど手入れがされていない。放置されているとまでは言い切れないが、建立当時の篤い信仰心は大分以前に失われてしまったのだろう。(写真:庚申塔台石「これ・・・」と「こいけさん」の文字が縦書きに読める)
2006年5月 1日 (月)
二つ池
二つ池はもともと一つの池だったが、池の真ん中に竜が落ちてその死体が土手となり二つに分かれた、というのが地元の伝説である。しかし実際は宝永4年(1707年)駒岡村と獅子ヶ谷村の水争いの結果築かれたのである。現在でも池の真ん中の小さな土手が駒岡と獅子ヶ谷の境界である。実際の事情とは全く異なる伝説が何故生み出されたのかは興味深いところだ。
現地には道路際に「立ち入り禁止」の札のかかった金網が設置されているが、驚くほど多くの人が柵の中に入り釣りを楽しんでいる。実は池をぐるっと半周回ると土手の反対側に行けるのだが、民家がせまっているせいかこちら側には柵がない。ここから300年前に築かれた「竜の死体」の上を歩いていけば、自然と金網の中に入れてしまうという状態である。すでに用水池としての役割を終えた今でも、この池は地域の住人の場所であるようだ。もっともこの土手の状態は実際危険なので、侵入はお勧め出来ないが・・・。(絵は獅子ヶ谷側の池)
2006年4月30日 (日)
柳町の由来:訂正版
前回、「柳町」という字名は昭和になってからつけられたのではないかと推察したが、それは間違いであった。生麦村の名主であった関口一族の記録「関口日記」に、文政9年(1826年)水不足のため岸谷の溜め池より水を引いた際の記録が残っている。ここに「柳町にも水を引いた」という記録が出てくる。
昭和5年の「鶴見区全図」には、新しく番地表示になった生麦町の310番地から564番地までの字名として「柳町」が使われているのは前回載せた通りである。しかし昭和33年の明細地図には、この付近に「原町」の表記がある。この「原」という地名も江戸時代以前のもので、むしろ文献にはこちらの方が圧倒的に良く見られる。実際、鶴見区の前身「生見尾村」のときは、この「原」を字名として使っていた。同じ地域に二つの字が混在しているようだ。
小さな村の古い区画名を調べるのは大変時間のかかる作業である。生麦の字名については今後も分かり次第載せていきたい。
(昭和33年明細地図(有)経済地図社 番地表示は昭和5年と同じである。)
2006年4月21日 (金)
柳町の由来
鶴見駅から38系統もしくは41系統の市バスに乗ると、3つめの停留所が「柳町」である。しかし現在「柳町」という町は存在しない。昭和42年の住居表示施行の際、この名は失われてしまった。
昭和5年の古地図「鶴見区全図」を見ると、現在の岸谷と生麦、鶴見の一部が合わさった区域全体が「生麦町」となっており、その「生麦町」の中にさらに5つの字(あざ)が存在していた。「明神前」「柳町」「貝助」「八幡前」「岸谷」である。この内「柳町」を抜かした4つの字については、その名前の由来をつきとめることが出来た。「明神前」は以前にも記載したが、杉山神社が「杉山大明神」と言われていたことからついた名だ。「岸谷」は、現在もその名の残るとおり新子安方面に向かって左手の、文字通り高台の地形を表している。「八幡前」は、現存している鶴見1丁目10番地の八幡宮からついた名である。「貝助」は「けいのすけ」と読み、生麦村の名主、関口八郎右衛門氏の祖先の一族に貝之助という人物いたという史実による。
しかし「柳町」だけ、幾度となく鶴見図書館で調べても、その名の由来を見つけることができない。まるで地域の長い歴史とは関わり無く、当時突然付けられたような印象である。もともと「鶴見区」の前身である「生見尾村」(うみおむら)(明治22年設立)当時は、この生麦地区は「北」「南」「本宮」「原」「岸」の5つの区画にわかれていたようだ。しかし、明らかに場所の違う高台の「岸」以外、海側の由緒ある区画の名前が一つも残っていない。どれか一つの名前を残すとわだかまりが生じるため、とりあえず樹木の名前をとって「柳町」という名前が生み出されたかのようにも思える。もちろんこれは私の勝手な推測である。
現在はその「柳町」の名が、バス停の標識に残されている。
(写真上:昭和5年製の鶴見区全図の複写の一部 写真下:岸谷4丁目の標識。実際の「柳町」は現在の生麦3丁目と岸谷1丁目・4丁目の一部をさしていた。)
2006年4月15日 (土)
神奈川区との区界
神奈川区と鶴見区の区界である滝坂踏切から、神奈川区方面へ少し歩いた所に、小さな祠が建てられている。現地の説明板には「才兵衛稲荷の由来」の文字がうっすら見えるが、肝心の内容は消えてしまっている。「なまむぎ今は昔」(㈱230クラブ出版)の「東子安村境」を読み、初めてその内容を知ることができた。『金をなくした旅の僧が、海に身を投げて死んでしまった。その死体は何度沖へ運んでも(東子安村側の)茶店の裏へ流れ着いてしまう。村人があわれに思い、浜辺に稲荷社を建てた。』さらに次のように解説が続いている。「当時は死体などが流れ着くと色々な費用がかかり、村の負担が大変なので、東子安村の人は何度も死体を沖に運んで、となりの生麦村に流れ着くようにと思ったのでしょう。ところが潮の流れのせいか、元の所へ流れ着いてしまったと思われます。村境らしい話です。現在でも滝坂踏切の道で、事故などが発生すると、鶴見署と神奈川署でどちらが担当するのか、むづかしい場所だそうです。」鶴見区と神奈川区との区界になっている滝坂踏切の道は、江戸時代にも生麦村(現在、鶴見区生麦)と東子安村(現在、神奈川区子安通)との村境であったのだ。
海沿いの村が潮の流れを読めないことなど果たしてあるだろうか。想像力をたくましくして推測すれば、何度も沖へ流した僧侶の死体が結果的に同じ場所に戻ってきたのは、潮の流れのせいではなく隣の生麦村が押し返していたためではないかと思える。「隣村に着くように沖へ流せ」という村長の決定は、隣村との関係を険悪にしただけではなく、祟りを恐れる村内にも不安感を高めた。おそらく村長としては、祠を建てて僧侶を祀り上げ、村内の不安を沈めると同時に、隣村に対しても「この件はこちらで処理したぞ」との証拠を見せざる得なかったのであろう。
「政治」の「政」も「祀り事」も、読み方は同じ「まつりごと」である。この小さな祠には「まつりごと」の難しさ、面白さが込められているのだ。(写真上:神奈川区子安通3丁目の国道15号沿いにある「才兵衛稲荷」 写真下:滝沢踏み切りに続く横断歩道脇に立つ「神奈川区」の区界。ここから100mほど歩いたところに祠がある。)
2006年4月 8日 (土)
明神前の由来
「明神前」とは、京浜急行の生麦駅に最も近いバス停である。しかし、一体どこの「明神前」なのか、付近に神社が見つからない。バス停のすぐ裏手に「原の神明社」といわれる神社は存在するが、この神社が由来だとするならば、何故「神明前」とせず「明神前」としたのかが分からなかった。
ところが最近になって、バス停より直線距離で500mばかり離れた岸谷の高台にある杉山神社が、明治40年までは「杉山大明神」と呼ばれていたという事実を知った。この高台(「宮山」と呼ばれていた)の下の海辺を「明神下の浜」と呼んでいたというのだ。(「なまむぎ今は昔」(株)230クラブ出版より)今では杉山神社と「明神前」のバス停の間に、JRや京浜急行などの鉄道幹線および国道15号が通されたことから、2つの場所の関連性が分かりにくくなってしまったが、このバス停の名前はバスや電車がなかった時代の名残であるのかも知れない。(写真左上:鶴見区生麦3丁目のバス停 写真右上:岸谷1丁目の高台にある杉山神社鳥居 写真左下:鳥居の柱の下に刻まれている「杉山大明神」の文字 写真右下:もう片方の鳥居の柱の下にある「天明元年丑歳六月吉日」の文字 1781年 江戸時代のものであることが分かる)
国道駅スケッチ
「国道駅前」というバス停は、考えてみれば面白い名前だ。バス停の名前が、鉄道の駅名から付けられている例は他にもたくさんあるが、この国道駅は、駅名そのものが「国道15号」という道路の名前から付けられたのだ。バスはその国道15号線を走っているのだから、バスが先か鉄道が先か、入り組んだ名前である。
国道駅は昭和の面影を残す駅として、本やテレビで紹介されている。しかし実際、駅の構内は薄暗く、外壁は剥離がひどいのか網で覆われている。手を入れることで昔の面影が失われるという批判があるのかもしれないが、昔の状態のままの現状を放置すれば、やがて駅全体を解体せざる得なくなるのではないか。歴史的な建造物として後世に残すのなら、保存のための計画を早めにたてるべきだ。
2006年4月 6日 (木)
2006年4月 4日 (火)
花月園前交差点での交通事故
花月園競輪場に向かう岸谷の交差点で、交通事故を目撃したことがある。自転車のおじいさんが競輪場方面に右折したところ、後から直進してきたオートバイの若い男性と衝突し、二人とも跳ね飛ばされてしまったのだ。私は生まれて初めて救急車を呼んだ。競輪のあるときは警備員が道沿いに立つのだが、突然の事故に動揺しているらしく「本部に報告して」などと連絡をとっている。私が携帯で呼んだほうが早いと思い、119を押したのだが、動かない二人を前に手が震えた。やがて救急車が到着し、救急隊員が被災者に意識を確認し始めた。若い男性は幸いヘルメットを被っており、意識はあるので会話は出来る様だった。「痛みはありますか?」「痛い・・・」「どの変が痛いですか?」「足の辺り・・・」確かこんなやりとりだったと思う。すると救急隊員はこう尋ねたのだ。
「痛いながらも、動かせます?」
緊迫の状況にあって、私の頭の中に思わず一瞬「?」という文字が浮かんだ。「痛イナガラモ?」間違ってはいないと思うが、あまり聞いたことのない日本語の使い方である。特に会話用語では・・・。「痛いとは思いますが、何とか動かすことは出来ますか?」正しい日本語の使い方ならば、このように指摘されるところであろう。しかし現場の救急隊員にはそのような長々しい文章を組み立てている時間は無いのだ。とにかく被災者が担架に乗る姿勢をとることが出来るのか出来ないのかで、その後の作業手順も変わってくるのだから。
やがて「痛いながらも」何とか男性は身体を動かし、またもう一人のおじいさんも身体を起こし、担架に乗せられていった。お二人が回復されていることをお祈りする。
鶴見駅西口の婦人像
鶴見駅西口にあるこの婦人像に目を留める人はどのくらいいるのだろうか?この婦人像「さわやかふれあい」は、鶴見駅東口の少女像「陽光」と同じ、井上信道氏の作である。台座には設計・施工「内藤石材店」と彫られている。井上氏は、地元「浅野学園」出身の彫刻家で、他にも多々作品を作られているようだ。この婦人像もあのゴミゴミとした西口にあって、なかなか「さわやか」なものだと思うが、なんといっても扱いが悪い。東口の「陽光」はそれなりに映えるが、西口の「さわやかふれあい」はひどいものだ。足元には樹木が植えられ銘が読めず、大小の立看板に隠され全体像が見えない。
このような銅像は扱いや置き方によってガラクタのようになったりもするし、逆に周囲を引き締める気品の象徴になったりもする。東口の彫刻「三つの扉」(斉藤史門 作)は、ビエンナーレ出展とのことで鶴見区ホームページにも載せられているが、地元の作者、石材店が作ったこの銅像も、もっと大切にしてもいいのではないか。
鶴見駅発バス停での出来事
2月某日、鶴見駅西口のバス停での出来事である。帰宅ラッシュのバスは始発からほぼ満員だった。寒い中列をなして待たされた乗客を乗せていよいよ出発、というときになって、小学校3年生ぐらいの男の子が前方の乗り口から乗り込み、運転手に話しかけてきた。マイクを通して漏れ聞こえる話によると、どうやらこの少年は同じ系統の別のバスに財布を忘れてしまったらしいのだ。東口の市バス事務所に行けば話は早いのだろうが、時間が遅くて閉まっていたのか、あるいは「事務所に行く」という発想を持てなかったのか、すがるように運転手に問いかけている。相手がいい大人なら「ここに電話して下さい!」と応対するのだろうが、なんと言っても小学生である。運転手は無線を使って事務所と交信し、財布の忘れ物がないか尋ねている。乗客達も辛抱強く待っている。結局、その時点では財布は届いておらず、見つけたら連絡してあげるよということで、運転手が「名前と電話番号を言ってね」と言ったとたん、突如男の子はバスから逃げるように降りてしまったのだ。「え!?何故!?」運転手はポカン。乗客たちもポカン。これだけ皆で待っていたのに、ボクどうしたんだ?!届いてないならもういいやと思ったのか、それとも大人達の「早くしろ!」の無言の圧力が怖くなってしまったのか・・・奇妙な疑問符と共に、後味悪くバスは出発したのだった。
新興駅前の由来
バス停の名前の由来となった建造物が、すてに無くなってしまっている例は多くある。横浜市営バスの17系統にある「新興駅前」もその内の一つだ。新興駅とは、神奈川区守屋町から鶴見区大黒町まで通されていた貨物の路線「新興線」の終着駅である。(なぜ「新興線」と名づけられたかは不明。)写真を撮影した2004年時点で、この新興線はほとんど使われていなかった。線路はかろうじて存在したものの、「新興駅前」のバス停付近に「新興駅」が見当たらず、駅の跡地らしき場所に詰め所のような小屋が建てられていた。しかしその後レールも小屋も撤去工事を行ない、バス停付近にはほとんど駅の痕跡がなくなった。現在「新興駅」は神奈川区守屋町に移され存在しているが、バス停とは大分離れた場所であるため、今では何故17系統のバス停に「新興駅前」の名称がついたのか、乗客も見当がつかないだろう。
かつて京浜工業地帯の湾岸地区は、貨物輸送の線路がはりめぐらされていたようだが、昭和50年代後半になると輸送手段がトラックなどに切り替わり、貨物の廃線が相次いだ。その京浜地区の歴史の一旦が、今ではバス停の名前にのみ残されているのである。(写真上左:鶴見区大黒町6番地のバス停)(写真上右:バス停近くにあった小屋)(写真下:神奈川区守屋町3丁目にある現在の新興駅)
2006年4月 1日 (土)
大黒町海づり公園スケッチ
3月某日の日曜日、大黒ふ頭の海づり公園まで散策にでかける。鶴見駅より横浜市営バスの17系統で出発、途中明神前を経由し京浜運河を渡る大黒大橋を抜け、Tバースなどのコンテナ倉庫を抜け、30分近くかけて埋立地のどんづまりまで行く。
公園には釣り客や親子連れ、一人で海を眺めタバコをふかしている人、季節外れの凧揚げをしている人など様々な人々がいる。風に反響するオブジェが、強風にあおられてやかましいばかりの音を響かせている。この日は雨のち晴れ、ときどき曇りと変わりやすい天候だった。ウッドデッキに横たわって釣りをしている若者は、時間をつぶしに来ているのか、真剣な様子は見えない。いかにも借り物といったような釣り竿もさっぱり動かないようだ。
そのうち、本格的な曇り空となってしまい、あわてて帰宅の途に着く。鶴見方面のバスは相当先まで来ない。仕方なく帰りは109系統で桜木町方面に出ることにした。大黒ジャンクションからベイブリッジを越えて一気に山下ふ頭方面に出る。眼下に見える横浜港、運河の先のタンカー、壮大な景色とそれを結ぶ橋の長さが、市バスのわずか210円で体感できるという、思いがけない経験となった。港町横浜ならではの市民サービスと言える。しかし、桜木町駅から鶴見駅に戻る京浜東北に乗り込むときには、最新ファッションに身を包んだ人々中で、いかにも公園帰りの格好をした我が身が、少々恥ずかしくもあった。






























































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