2008年4月 4日 (金)

2008年 花月園の桜

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 昨年に引き続き、今年もまた花見をしに花月園競輪場へと向かった。競輪の開催されていない園内の駐車場は、満開の桜を楽しむ家族連れで賑わっていた。昨年と同じ光景である。駐車場下の細い道は、いかにも「花月園遊園地」時代の名残のように思える。その舗装された道のアスファルトを割るように、一本の桜が根を張っていた。

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2007年11月26日 (月)

朝のバス停

Cimg2283  181系統は、鶴見駅西口から大黒ふ頭方面に向かう経路の市営バスである。朝のラッシュ時には始発のバス停に乗客の長い列ができる。その列は2列で構成されている。先発のバスを待つ乗客の列と、その次の後発のバスを待つ乗客の列だ。停留所のベンチがその列の区切りに使われている。先発のバスを待つ乗客は、ベンチの前に立って列を作りはじめる。後発のバスを待つ乗客は、ベンチの後ろに立って列を作る。やがて先発の列が長くなってくると、ベンチと、その後ろに立つ人々を包み込むようにぐるりと折り返す。まるでサンドイッチにようにベンチと人の列とが重なりあうのだ。
 やがて始発のバスが到着すると、先発を待つ長い列が次々とバスに吸い込まれていく。ドアが閉められると、後発のバスを待っていた人々が一斉にベンチの前に移動する。今度は彼らが「先発」を待つ列となったのだ。そして再び列が長くなると、ベンチの後ろピッタリとくっついて立つ後発待ちの列を包み込むように折り返す。誰が作ったわけでもない暗黙のルールが、毎日整然と繰り返されている。

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2007年9月25日 (火)

大黒橋からの光景

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 明神前の交差点から大黒町に向かう途中で、最初に渡る橋が「大黒橋」である。この橋を渡ると広大な埋立地に密集する工場群以外には何も存在しなくなる。日没近くには、大黒橋の下の大黒運河に、空の色が鮮やかに映える。この日は何故か釣舟が二艘たゆたっていた。

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2007年9月15日 (土)

厳島神社

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 厳島神社は駒岡3丁目の住宅地にぽっかりと存在する小山の上にある。この付近一帯の小字をかつて「丸山」と言ったが、それはこの小山の形状にあるようだ。細い石段を登ると、生い茂る樹木を払って作られた狭い境内の入口に「宝永二年」「弁才天」「石坂造」の文字が彫られている小さな石があった。300年前のものだ。石の鳥居の下をくねるように通された参道の先にはこじんまりとした祠があったが、鳥居や祠は比較的新しい時期に再建されたものらしく、古い建造物特有の風情は感じられない。樹木に阻まれて眺めを楽しむことも出来ず、やがて小雨が降り始めたため、早々に引き上げることにした。

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2007年9月 7日 (金)

梶山橋

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 三ツ池公園の北西には住宅地とつながっている出入口がある。そこから駒岡と梶山の境となっている細い市道に出、北に進むと陸橋に出る。これが梶山橋である。環状2号線を跨ぐこの橋は昭和43年の竣工だ。一旦渡りきってから坂を降り、下の歩道から見上げると、斜めに組み合わされた橋脚が橋桁を支えているのが分かる。鶴見の陸橋と言えば東寺尾の響橋(ひびきばし。通称:めがね橋)が有名であるが、この梶山橋もまた力強さと優美さを兼ね備えた印象的な橋だ。

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2007年9月 1日 (土)

二本木第二公園

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 二本木第二公園は東寺尾6丁目26番地の隅にある。この26番地は大部分が急斜面となっているため、開発されずに昔ながらの森がそのまま残されている。公園にはその森の木々が覆いかぶさっている。また公園内に植えられている巨大な樹木も天高く枝を伸ばしており、細長い公園にアーチ状の屋根が作られているようだ。遊具はあるが、子供の姿はなく、蝉の鳴き声だけが響いていた。

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2007年8月23日 (木)

寿老橋

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 昭和12年に埋め立てられた鶴見沖の新しい土地は、七福神に因んだ名前がつけられている。「大黒町」もそのうちの一つだ。鶴見駅から19系統の市バスに乗り、大黒町の最も西よりある「寿老橋」の入り口に行った。橋には送水管・送ガス管・送電線を通すための洞道が平行して敷設されており、むき出しの動脈のように見える。せっかくの運河河口の光景も遮られてしまっていた。この橋を渡れば神奈川区の「宝町」となる。「布袋橋」を渡るとその向こうが「恵比寿町」となるが、七福神の名のついた工場地帯を猛暑の中歩き通すのは無理のようだ。結局近くのバス停から、終点の新子安駅に向かうこととした。

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2007年8月15日 (水)

鶴見市場駅追突事故

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 昭和19年12月26日、午後8時20分、東京急行電鉄(現在の京浜急行)鶴見市場駅構内にて木造列車の追突事故が発生した。停車中の上り列車の後方より、上り品川行の列車が時速50mにて激突。後方列車の前輪は停車列車に25mほど乗り上げ、停車列車の3両目は右側に転覆大破、死者53人重軽傷者46人を出す大惨事となった。原因は後方列車の1両目の運転機械が故障したため、運転手(当時18歳)が車掌(当時19歳)を1両目に移し、2両目の運転台にて操縦していたことによる。灯火管制下、視野のきかないまま車庫入れを急ぐ運転手と、先頭車両の車掌との間に連絡がつくはずもなかった。このような後部車両による運転は当時しばしば見られ、加えて乗務員による信号安全の合図も励行されていない状況であった。当時の新聞でも「この事故は偶発的ではない」と糾弾されている。
 これほどの列車事故にもかかわらず、その記録は驚くほど少ない。『京急の駅 今昔・昭和の面影』『京浜急行百年史』には若干の記述があるものの、『鶴見区史』には巻末の年表にわずか一行。『環境・災害・事故の事典』(丸善株式会社出版)には、1874年以来270件近く載せられている国内の鉄道事故の年表に載せられていないのだ。
 戦争末期の灯火管制下、人員不足を象徴するような年若い運転手が引き起こした事故は、多くの悲惨な戦災に埋もれ忘れ去られてしまった。
(左:昭和19年12月28日、朝日新聞全国版(裏面)。事故は発生から2日後に新聞掲載された。紙面全体がすべて戦争記事であり、鉄道事故は裏面の下である。右:同日、朝日新聞神奈川版。「国防国体の活躍、事故処理に絶大な力」「物をいった氏名証、死亡食止めに衛生隊の功績」の文字が目立つ。)

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2007年8月 4日 (土)

『横浜の町名』

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 横浜市市民局から出版されている『横浜の町名』を地名研究に参照するときは、昭和57年の初版にあたらなければならない。例えば「岸谷(きしや)」に関する項目でも、以下の通り異なるのである。

【昭和57年版(初版)】
・岸谷(きしや)(一丁目~四丁目) 〔昭和四十二年・五・一〕
昭和四十二年住居表示の施工に伴い生麦町他一部より新設された町。町名は地元の要望により字名を採用したもの。キシとは、崖、山手などの意味を持つ地形用語で、岸谷とは「山側の谷戸」、あるいは「山手の谷」という意味で、現在の生麦を古くは岸村といった時代があり、岸村(ガケのある村)に対し、岸村にある谷戸という意味であるとも考えられよう。
【平成8年版(最新版)】
・岸谷(きしや)一丁目~四丁目 〔昭和四十二年五月一日設置、住居表示〕
昭和四十二年住居表示の施工に伴い生麦町他一部より新設された町。町名は地元の要望により字名を採用したもの。地名研究で「キシヤ」とは「山側の谷戸」あるいは「山手の谷」という意味という。一・四丁目の東側を東海道本線・横須賀線・京浜東北線が通り、二・三丁目の北西側を第二京浜(国道一号)が通る。

 昭和57年版に書かれていた地名の解説が、平成8年度版では大幅に削られてしまっているのがわかる。代わりに現在の岸谷の情報が書かれているが、これは「町名」と名付けられた本に載せるべき内容ではない。
 もともと本書は、昭和42年から始まった住居表示に伴い、新設された町名の由来を明らかにするために発行された本である。初版が刊行された当時は急速に統廃合されていく町名や地名に対し市民の関心が強く、またそれだけ行政に対しても高い見識が求められたのだろう。
(写真左:昭和57年版。地名研究家、桜井澄夫氏調査執筆委託されたもの。その内容はもとより住居表示課の挨拶文、附録に至るまで読み応えがある。写真右:平成8年版。)

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2007年7月26日 (木)

岸谷「根の道」

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 岸谷の台地の裾野を巡る長い道を「根の道」という。道沿いから縄文・弥生時代の貝塚が発見されており、海側の東海道よりもはるかに歴史の古いことが分かっている。この道が生麦・子安線として整備されたのは昭和6年。鶴見から獅子ヶ谷に向かう「獅子ヶ谷通り」の整備も、失業対策として始められたのが昭和6年であるというから、同じ目的の工事であったのだろう。現在ではバス通りとなっている曲がりくねったこの旧道には、安全のためのミラーがいくつも取り付けられている。
(絵:竜泉寺入り口付近。石垣は昭和6年当時のもの。)

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2007年7月 7日 (土)

成願寺三ッ池

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 曹洞宗大本山総持寺の山門脇、三松閣前にある小池は、かつて「成願寺三ッ池」と呼ばれた溜池の一つである。もとは三段に分かれていたが、その内の2つが埋め立てられ、現在まで存在している最後の池には6階建ての建造物を支える巨大な鉄筋が打ち込まれている。それなりに手入れはされているようだが、水量の少なくなった姿は風光明媚とは表現し難い。しかしこの小池こそ、かつては生麦北部耕地を潤していた農業の生命線であった。
(写真左:総持寺は明治40年、石川県より鶴見の成願寺境内に移転してきた。三松閣の裏手の森に旧成願寺跡地の碑が残されているが、訪れる人は少ない。地図右:明治14年の地図。溜池が三つ描かれている。)

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2007年6月27日 (水)

岸谷2丁目公園

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 岸谷2丁目公園は、生麦中学校へ続く急階段のある「上の部分」と、最も広い「真ん中の部分」、そして岸谷小学校に近い「下の部分」の、3つに別れている。それぞれは市道で隔てられた別の区画に入っているが、そのすべてを合わせて「岸谷2丁目公園」と名付けてしまっているのが面白い。おそらく地元の人達の間では、それぞれの区画が認識できるような通り名があるのかも知れない。
 絵は「上の部分」。階段の両脇には、ベンチのある広場とアジサイの花の咲く小さなスペースがそれぞれあるが、敷地が狭すぎるのかこの部分は子供達に人気は無いようだ。遊具のある「真ん中の部分」で遊ぶ子供達の声が階段の下の方から聞こえてきた。

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2007年6月20日 (水)

江ヶ崎跨線橋

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 鶴見区江ヶ崎と川崎市幸区小倉をつなぐ「江ヶ崎跨線橋道路橋」は、昭和4年、新鶴見操車場の上に架けられた鉄橋である。神奈川の橋100選にも選ばれているが、錆びのついた外観からも分かるとおり老朽化が激しく、今年中に架け替え工事が始まるようだ。すでに廃止された操作場は、現在更地となっている。人の姿の見えない広大な敷地に群生したハルジオンの白く小さな花が、無数の泡のように見えた。

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2007年6月10日 (日)

北寺尾「町のはらっぱ」

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20070526151543  「町のはらっぱ」と名前のついた土地を北寺尾の地図に見つけ、不思議に思った。「はらっぱ」とは本来地図に載らないような空地だと思っていたからだ。実際に行ってみると、確かにそこは空地であった。ゆるい傾斜があるむき出しの地面に、膝まで伸びた雑草がそよいでいる。しかし周囲をぐるりとフェンスで囲われ、2つの狭い入り口以外は侵入出来ないようになっている。入り口には町内会の注意書きの看板がかかっている。要するに「はらっぱ」風に作られた管理された公園であった。
 少し寂しい気もしたが、ベンチもない広場に直接腰を下ろすと、だだっぴろい空間を存分に楽しむことができた。
  (写真:「町のはらっぱ」の入り口に至る道。街路樹が撤去されずに残っている。)

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2007年6月 5日 (火)

キリン横浜ビアビレッジ(キリンビール横浜工場)

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Photo_150  生麦にあるキリンビール横浜工場の土地はもともと広大な貯木場であった。しかし中区に貯木場が整備されるとともにその機能を失い、埋め立てられていった。そしてその跡地に関東大震災で壊滅的な打撃をうけたキリンビール山手工場を移転させたのである。岸谷や子安台の土砂を使って貯木場を埋め立てる工事は当時大変なものであったようだ。しかし大正15年の開設以来、80年以上たった現在でもこの横浜工場はキリンビールの主力工場として稼動し続けている。
 なお昭和の初めまで存在した鶴見川沿いのカスケードビール(寿屋・現在のサントリー)を廃業に追い込んだのは、このキリンビールの生麦進出も一因であったらしい。閉鎖された後、カスケードビール工場の従業員の多くはキリンビールに雇用されたということだ。
(絵:工場の敷地の一部はキリンビアビレッジとして市民に解放されている。公園の木々の向こうに巨大な貯蔵タンクが見える。写真:ビールの講習会や工場見学も行われている。要予約。)

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2007年6月 1日 (金)

朝陽山八幡宮(ちょうようざんはちまんぐう)

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  花月園入り口の右手の小山に、生麦北町の氏神として祭られている八幡神社がある。創建は不明だが、元禄年間の文献にはすでに記載があるようだ。かつては山頂から生麦浦の眺望を楽しむことが出来、また海上にいた猟師達からも帰帆のよい目印とされていたらしい。
 しかし現在は、埋め立てられ遠くに後退した海上からはもちろん、すぐ傍のバス通りからも社殿は見えない。見えるのは鬱蒼とした木々の塊だけである。2年ほど前は古い石段を登り頂上に行くことが出来たのだが、現在では入り口の鉄門扉で遮られ中に入ることすら出来なくなっている。
 この神社はこのまま森の中に埋もれてしまうかのようだ。
(絵:手前の鳥居は江戸時代の制作だが、石組みがずれており、通り抜けには注意が必要である。左の道は鶴見および東寺尾東台へと続いている)

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2007年5月24日 (木)

佃野公園(つくのこうえん)

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 昭和54年、鶴見川氾濫対策のため、JR架橋下の湾曲部を直線化する大工事が行われた。川は元宮側に寄り、佃野町側には新しい三日月形の土地が生まれた。この土地の一部が現在の佃野公園(つくのこうえん)である。
 雨上がりの夕方、公園に出向くと、雨水と海水の入り混じった濁った水面が驚くほど迫って来ていた。あと15センチも水位が上がればそのまま浸水してくるだろう。コンクリートで固められた広場は、いかだフェスティバルや花火大会に利用されているが、そのまま遊水池としての役目も担っているかのようだ。
(地図左:昭和14年の湾曲部。地図右:現在の川筋。かつての湾曲の後が細い道となっている。)

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2007年5月19日 (土)

花月園弁天堂の史跡

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 花月園競輪場の駐車場の奥、競輪組合の建物の横に小さなグラウンドがある。このグラウンドはかつて「花月園」の「スワン池」であった場所だ。ボート遊びの出来るスワン池の周りには、当時の著名な画家達の絵馬が奉納された「絵馬堂」の回廊が巡らされ、その典雅な風景を見下ろすように石造りの高台の上には「弁天堂」が建てられていた。70年前に閉鎖された遊園地の跡が残されている数少ない箇所だ。
 競輪場の開催日ともなると、駐車場に入りきれない車はこのグラウンドに誘導されているようだが、石造りの高台だけは鶴見の遺産として保存してほしいものだと思った。
(絵:雑木林に埋もれる史跡。脇の階段は今でも上ることが出来るが、弁天堂が建てられていた跡地には草木が生い茂り、眺めを楽しむことは出来ない。)

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2007年5月13日 (日)

「花月園」

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 新橋の料亭「花月」の経営者だった平岡広高が鶴見の台地に作った児童遊園地の名を「花月園」といった。その開園の経緯が『花月園弁天堂絵馬集』の前書きに記されている。

「園主欧米を漫遊し、たまたま仏国パリの郊外に特設された児童のみの遊園地に散策し、その設備一つとして児童本位のものならざるはなく、視るもの聴くもの食するもの皆留意到らざるなきに、痛く驚嘆させられたのであります。更に同園には救護所をも常設し、医師看護婦等を置きて万一に備え、かつ掃除その他衛生施設が行き届いて紙屑一つ散乱せざるを見、しかも我が日本にはこの種の遊園地絶えて無きを顧みて、転た羨望に堪えませんでした。」

 大正3年花月園は開園した。当時最先端の大遊園地は隆盛を誇り、最盛期の来園者は年間100万人、敷地は7万坪にまで拡大したが、平岡の理想はさらに高みにあった。

「理想の拡張、即ち十五、六万坪にして国有公園を凌駕する如きものとなすにはまだ尚四五百万円を要するのです。どうかこの老人の宿願を遂げさせられんことを江湖識者に懇願いたす次第であります。」

 子供の健全な育成を願いその王国の完成を目指した花月園は、その後不況の影響などにより、昭和8年多額の借財のため平岡の経営より離れ、昭和14年に閉鎖となった。今ではその名前のみが跡地に作られた競輪場に受け継がれている。
(写真左:花月園競輪場の入り口に立つ案内板。写真右:現在の京急花月園前駅。「花月園前駅」はもともと工事費用を花月園側が負担する形で大正4年に作られた駅である。)

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2007年5月 5日 (土)

【番外編】京都ぶらり絵日記:東福寺

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Photo_131  京都の東福寺は、13世紀半ば摂政九条道家が建立した臨済宗東福寺派の大本山である。敷地面積は20万平米以上、大伽藍を有し、国宝、重要文化財等を数多く所蔵する京都でも屈指の大寺院である。
 我が鶴見区にも同じ名の寺院があるが、残念ながら規模がまるで違う。実は建立自体は鶴見の東福寺の方が早い。しかし大正時代、花月園(遊園地)に敷地の大半を提供してしまったことにより、今では参詣者も少ない街中の小さな寺へと変貌してしまった。
(絵:東福寺開山の聖一国師が祀られている開山堂(かいざんどう)。瓦屋根から楼閣が突き出たような形である。お堂の前は砂の文様を市松に描いた普門院庭園となっている。)

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2007年4月30日 (月)

三角形の土地(市場富士見町)

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Photo_128  市場や潮田など近代になってから直線で区分けされた地域には、その隙間を埋めるような三角形の土地が出現することがある。市場公園もこうした土地の一つで、見事な三角形を成しているが、公園の対角にある土地も大変印象的である。一辺20m前後の正三角に近い土地は石垣で区分けされ、盛り土した敷地の中にチェスの駒のように5本の木が植えられているのだ。利用するのが難しい尖った角地は、昔から地蔵が祀られるなど特殊な空間として使われることが多かったのだよと大学で教授から教えられたことがあるが、正にその説明に当てはまるような一種独特の空間であった。
(市場富士見町の三角形の土地。木登りして遊べる雰囲気ではない。国道15号を挟んだ向かい側の市場大和町にも全く同じ形の土地があるが、こちらは樹木だけでなく花も植えられており、明るく開放的であった。)

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2007年4月22日 (日)

「法隆寺前」

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 鶴見駅から41系統のバスに乗ると、港北区に入る手前で「法隆寺前」というバス停を目にすることが出来る。その先の交差点にも「法隆寺」の名がある。あの有名な法隆寺と同じ名前の寺院があるのだろうか。興味が沸いて探してみると、交差点の崖下が連福山法隆寺の境内であった。住所は港北区菊名4丁目である。山門前には堂々たるイチョウの木があり、意外にも広い境内は整然として落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 早速港北図書館に行き『港北区史』を開いたが、しかし何故かこの寺の記述を見つけることが出来ない。司書の方に教えていただき、散策用の小冊子の中にようやくその名を見つけたが、『横浜市史稿』や『新編武蔵風土記稿』にも載っているこの寺院の扱いは、港北区の資料の中では必ずしも大きいものではなさそうだ。
(絵:法隆寺本堂。寺の創立は不詳だが、日蓮宗としての開山は16世紀である。「安房国小湊誕生寺ノ末」とあり、奈良の法隆寺との関係は無いようだ。)

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2007年4月17日 (火)

寺尾隧道(てらおずいどう)

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 JR横浜線の菊名駅と大口駅の間にあるトンネルには「寺尾隧道(てらおずいどう)」という名がついており、ちょうどこの地点が鶴見区、港北区、神奈川区の3つの区の境になっている。
 港北区側の坂道からこのトンネルを描いていると、中年の男性が話しかけてきた。トンネルの近くの森には、今でも狸が出るというのだ。この坂の下のゴミ捨て場でも時折ゴミを漁っているらしい。若干お酒の匂いがする息でそう話し終えると、男性は上機嫌で何やら言いながら、そのまま坂を下っていった。

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2007年4月10日 (火)

森永橋の桜

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2_8 鶴見区80周年記念として作成された「鶴見川桜マップ」を片手に、下流の臨港鶴見橋から上流に向かって歩いていった。頑強に作られた堤防沿いの道は、歩きやすく整備されている。決して悪い道ではないが、桜の木々が楽しめる美しい光景が続く道とも言いがたい。部分ごとに堤防整備をしているためか、遊歩道の作り方や植物の配置に今ひとつ一貫性がないのだ。桜マップがなければ桜の見所が分からないというのも考え物である。
(絵:森永橋を背景に、その袂に立つ桜を描いてみた。花曇という言葉の似合う天気であった。)

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2007年4月 6日 (金)

花月園の桜

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 花月園競輪場の桜は、実に見事である。来客用の駐車場をぐるりと囲むように植えられた桜の木々は、鑑賞しなければもったいないほど豊かな量感がある。天気のよい日曜日、競輪の開催されていない花月園競輪場まで歩いていった。すると駐車場は、私と同じように花見を楽しもうとする大勢の家族連れで賑わっていた。サッカーやボール投げをする子供達の姿も見える。駐車場の入り口にチェーンのかけられる休園日だからこそ、このような賑やかな光景が見られるというのはなんとも皮肉なことだ。かつて遊園地であった花月園の跡地に必要なのは、果たして競輪であるのかと考えされられる光景でもあった。

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2007年4月 1日 (日)

【一周年ご挨拶】

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 一年を通してブログを続けるということは、自分が思った以上に労力を要する作業でした。それでもここまで続けてこられたのは、鶴見の魅力にとりつかれたからと言う以外にありません。
 鶴見の最大の魅力は、「未開発な土地」であったということです。入り組んだ谷戸と鶴見川に挟まれた生産性の低い土地は有力な武将などを輩出できず、江戸時代もまた天領と旗本領とに細切れに支配されていたため、注目すべき華々しい歴史は存在しません。農民と農民の間に起こる争いと和解、自然災害との戦い、権力への服従と反発等、庶民の生活がそのまま鶴見の歴史を形成しています。その庶民が、明治以降浅野総一郎らによって進められた工業化の波にのみ込まれながらも、その生活を今日まで連綿と続けています。地元の郷土史家が残した書物を丁寧に読んでいると、まさに「民衆」の本質を知ることができたかのような面白さがあります。
 これからも自分自身楽しみながら、鶴見の面白さを紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお付き合いください。
 (写真:スケッチブックも3冊目になりました。真夏日のスケッチをどう乗り切るかが今年も頭の痛い課題になりそうです。)

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2007年3月28日 (水)

鶴見区区制80周年


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 現在 の鶴見区は、江戸時代には16の村(※)に分かれていた。明治22年、町村分合改称令により鶴見川河口の生見尾(うみお)村(後に「鶴見町」に改称)、鶴見川以東の町田村(後に「潮田町」に改称)、山間部の「旭村」の3村にまとまった。さらに大正14年、鶴見町と潮田町は合併し、新しい「鶴見町」となった。鶴見川で分かたれた鶴見と潮田は、江戸時代にはそれぞれ神奈川宿、川崎宿と別々の助郷村に指定されていたこともあり、距離は近くともさほど緊密な縁があったわけではない。特に鶴見は生活用水を溜池に頼り、潮田は川崎方面から引かれた二ヶ領用水を利用していたため、水の利用から考えれば潮田は川崎市への縁が深かった。鶴見と潮田が合併したのは京浜地区の埋め立てに伴い急激に工業化、商業化が進み、工場労働者が両地区を頻繁に往来するようになったためである。しかし人口の増加とともに深刻な水不足にも悩まされるようになった。
 昭和2年、鶴見町は旭村とともに横浜市へ編入した。工業地帯として発展する鶴見を編入させたいとする横浜市の申し出に対し、鶴見側が編入の条件として申し入れたのは、昭和2年9月までに水道の敷設をすることであった。横浜市はこの条件を承諾し敷設は完了した。同年10月、横浜市は区制を施行する。「横浜市鶴見区」はこうして誕生したのである。
(絵:鶴見駅東口にある獅子頭の共同水道栓。区制80周年の今年、横浜市との合併の契機となったこの水道施設にもう少し光を当ててもいいのではないか。)(※港北区の誕生により師岡地区は分区)

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2007年3月21日 (水)

末広橋からの風景

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 末広町から平安町2丁目まで通されていた京浜運河(別名川崎運河)は、モータリゼーションの発展とともに昭和初期に埋め立てられた。弁天町と寛政町に渡された末吉橋のすぐ上流の箇所が、その埋め立ての末端である。
 土留めの鋼材がむき出しに埋め込まれているが、片方の壁面にだけ昔の堀の跡がかろうじて残されている。鶴見川の下流とは全く違う、穏やかな水がたゆたっている。傍に植えられた大きな桜の木がこれから花をつければ、その姿が水面に美しく映ることだろう。(絵:末広橋から上流を眺む。ここから反対側の河口に続く水路は現在「旭運河」と名前を変えている。)

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2007年3月15日 (木)

『横浜木材史』

Photo_106  『横浜木材史』(師田滝三著 昭和33年7月 横浜木材業協同組合出版)は、江戸時代に深川の木場を拠点として確立していた木材業が、明治以降横浜にも発展していく様子が書かれている。木材業を通して横浜の近代商工史を知ることが出来る、大変勉強になる本だ。特に関東大震災後の輸入木材の増加に対応して計画された「横浜市営貯木場」の設置の経緯は、一読の価値がある。
 市営貯木場は、その設置場所を東京に近い鶴見沖とするか、横浜木材界の有力者が押す新山下町とするかで意見が分かれてしまった。昭和3年、東京外国木材協会が大反対していた新山下町にて承認されると、東京側は外材の輸入を「東京直航」とする決議を出した。「横浜港を使用しない」という決議に非常な衝撃と恐慌をきたした横浜側は、貯木場の経営権の7割を東京側に譲渡する旨の提案を出す。この提案でどうにか東京側との調整がつき東京直航は回避されるが、その際東京外国木材協会の幹事会が出した声明書が面白い。 
  
 「そもそも東京直航論と横浜提携論とは表面上大なる径庭あるが如きも、その根本目的は何等異る処なく、ただこれに到達する経路に相違あるにすぎず。・・・例えば足強き者は険路を直進して早く目的地に達せんとすれども、足弱き者は一見多少は遅く思わるるも平坦なる道を選び完全なる行程を希望すると同様なるべし。・・・共存共栄の精神により横浜側と強調し、直航に近き効果を収めて完全なる経路を採るは、至当の処置なるもの事を確信するものなり・・・」

 こうして様々な利害や対立を乗り越え、どうにか貯木場が本格的に運用開始された昭和10年には、すでに震災による特需が終わり、日本国内への米材の輸入は激減の一途をたどってしまっていた。

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2007年3月10日 (土)

もう一つの「ゆたか橋」

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 鶴見区の地図を見ると、小野町の鶴見川沿岸で不自然に切れている道をみつけることが出来る。実はかつてここから対岸の生麦を結ぶ「ゆたか橋」という釣り橋が存在していた。竣工は昭和8年1月。数年後に暴風雨で破壊されたということだが、昭和14年の地図にはまだ存在している。現在この場所に行ってみると一面を更地にして工事が始まっており、切れた道の先端を確認することがすでに出来なくなっていた。対岸の生麦側でも護岸工事が進んでおり、その痕跡らしきものはない。川岸に降りるために作られた新しい階段が、おそらくかつての橋の位置にあたるのではないかと思われるだけであった。(絵:対岸の生麦側には名物の「貝殻を敷き詰めた川辺」が見えたが、護岸工事が進めばそれもまた失われそうな気配である。地図左:現在の鶴見区の地図。地図右:昭和9年の地図。)

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2007年3月 4日 (日)

豊橋

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2_1  前回の緑橋を見に行く途中で偶然に見つけた別の橋がある。「豊橋」である。旭運河と平行して設置されている石の欄干は、なんと片方しか残されていない。存在するべきもうもう片方の側には入船公園の街路樹が並んでいる。欄干の下を覗くと窪んだ地面が見える。
 昭和9年の地図を見ると、入船公園はかつて巨大な貯木場であったことが分かる。豊橋の下には運河と貯木場をつなぐ水路が存在していたのだ。鶴見は船便、川便、陸路とも交通の便がよく、また大正期からの埋立地に進出した大企業の工場労働者向けの住宅供給のために、昭和初期には製材工場や木材店が多く立ち並んでいたという。その後貯木場であった場所は日本鋼管(株)鶴見製鉄所となり、昭和60年には現在の入船公園となった。その過程で池はおろか水路も埋め立てられ、橋の片方の欄干も外されてしまったようだ。
(地図:「鶴見木材会社池」の表記が見える。この会社の詳細は不明である。鶴見区内での木材業者が共同で使用していたのであろうか。)

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2007年2月25日 (日)

緑橋

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Photo_96  鶴見区の明細地図を眺めていると、旭運河に架けられた「緑橋」という橋が目に入った。工場地帯に「緑」という名が何故付けられたのだろう。この橋を実際に見にいくことにした。
 末広町にある緑橋の入り口は、古びた鉄の扉で閉められており進入禁止となっていた。「コークス専用車出入口により、一般車の駐停車はご遠慮ください。東京ガス(株)鶴見工場」と書かれた錆びた看板がかかっている。東京ガスのホームページを見ると、橋の向こう側にある「鶴見事業所」に関する記事が載っていた。鶴見事業所は昭和5年から平成9年まで約67年間、東京ガスの主力工場として稼動していた。しかし平成になってからの調査で、石炭を主原料とした都市ガスやコークスの製造過程で生成される化学物質が土壌に漏洩していたことが判明したというのである。(周辺の海水への影響はないとのこと。)現在ではガスの主原料がクリーンな天然ガスに変わったため、同様の汚染物質は発生しないと書かれていた。
 昭和の高度成長期の時代、幾度となく利用されたこのであろうこの橋は、平成19年の現在、もう使われてはいないのかも知れない。ガスの原材料が環境に配慮して変わるとともに、「緑」と名のついたこの橋の主な役割も終わってしまったのだと、入り口の閉ざされた門が伝えているように思えた。

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2007年2月18日 (日)

東寺尾配水池

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 市営バスの「白幡」停留所で降り、松陰寺の前を過ぎて坂道を登ると、巨大な円盤が地面に埋められたような奇妙な建物が見えてきた。モスグリーンに塗装された半円形の屋根には継ぎ目が全く見当たらない。そののっぺりとした外観は不気味ですらある。これが「横浜市水道局工業用水道東寺尾配水池」である。道路向かいは子安ゴルフ場、後ろは東寺尾ふれあいの樹林となっており、時折ゴルフボールを打つ音とこの水道設備から響く低いモーター音だけが聞こえてくる。人気のない森の近くで、無機質な建造物を前に、その乾いた音をただ聞いていると、まるで寺か神社の境内にいるかのような不思議な感覚にとらわれた。

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2007年2月10日 (土)

【番外編】港北区ぶらり絵日記:亀甲山(かめのこうやま)

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 小机城址から約1km離れた亀甲山は、亀山ともいう。頂上が平坦で亀の甲の形に似ていることからこの名がついたようだ。15世紀、小机城址に立てこもる山内上杉氏の一族を攻めるため、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏家来の太田道灌が陣を構えたのがこの亀甲山である。鶴見川を挟んだ丘の上に、戦国武将たちが陣を構えて睨み合うというドラマチックな歴史が、この新横浜地区で繰り広げられていたとは大変感慨深い。しかし丁寧な案内板が設置された小机城址とは対照的に、この亀甲山では一切の遺構を見ることが出来なかった。丘の頂上では新しい企業団地を建設するための工事が行われており、なんとも無粋な光景である。道灌が小机城攻めの際に詠んだという歌碑などを設置すれば、対岸の小机城址の歴史にも一層の深みが加わると思えるのだが、残念だ。
(太田道灌の歌「小机は、先ず手習いの初めにて、いろはにほへと、ちりぢりとなる」小さな机は、字の練習を始めるときに使うもの。いろはの文字を書くように戦いも簡単に終わってしまう。小机城もすぐに落ちる、の意味)(写真左:亀甲山。写真右:亀甲山の麓から見える鶴見川対岸の小机城址)

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【番外編】港北区ぶらり絵日記:小机城址(こづくえじょうし)

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Photo_91  小机城址は、小高い丘の上に「空堀」(からぼり)が残されている中世の城跡である。竹林の中に作られた散策路を歩いてみると、地面には枯葉が降り積もりスポンジのように柔らかい。このままにしていれば翌年には新しい芽が出て、空堀もまた森の中に埋もれていってしまうことだろう。今日まで何百年も前に作られた遺構が保存されているのは、何年にもわたる土地所有者の方々の努力の賜物である。
 現地の案内板には、小机城がおそらく12世紀以降に造られたものであること、当時この地域の有力者である上杉氏と関わりのあった城であろうと解説されていた。1489年、山内上杉家の家督争いにより、鶴見川を挟んで対岸にある亀甲山(かめのこうやま)に帯陣した大田道灌と戦い、落城。その後関東の支配者となった小田原北条家の領地となるが、その北条家が滅びた後、徳川家の家臣として知行を与えられた城主が退出してしまうと、小机城は廃城となりその歴史を閉じたと結ばれていた。 (絵:溝のように掘られた空堀。深さは10メートル前後に及ぶ。)

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2007年2月 5日 (月)

【番外編】港北区ぶらり絵日記:亀甲橋(かめのこうはし)

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  港北区の小机町と新羽町を結ぶ亀甲橋(かめのこうはし)が最初に架けられたのは大正時代である。230クラブ出版の「新羽史」には、土橋の頃の亀甲橋が洪水によって流されてしまった写真が載っており、増水の最中に行われる消防団の復旧作業は命がけものであったと解説に書かれている。
 現在この地域では「新横浜ゆめオアシス」と名づけられた多目的遊水地が建設中である。完成すれば戦後最大規模の雨量でも安全に流下させることができるという。平成14年に架け替えられた新しい亀甲橋を歩いてみると、真下に流れる鶴見川は大人しいせせらぎを見せていた。最近では築堤が進められたことにより、浸水被害などのニュースもほとんど聞かれない。広大な遊水地は何とも大げさであるように思えたが、しかし幾たびもの洪水によって人命と財産が失われたこの地域の歴史を学んだ後は、目の前の公共工事もまた必然のものかと考え直した。
(労災病院から橋を望む。溜池のある遊水地、その先に鶴見川の土手と川がある。すべてを跨ぐ亀甲橋は全長400m前後もある。橋の右側の丘が亀甲山である。)

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2007年1月29日 (月)

【番外編】港北区ぶらり絵日記:さんかくはし

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 新横浜の労災病院の前、鶴見川支流の鳥山川に架けられた人道橋である。スタイリッシュな白い三角形のアーチと、その形状通りのシンプルな名前が魅力的である。スケッチしたのは朝の10時。病院に向かう人、散歩している人、コートに身を包むビジネスマン、学生達・・・様々な人々が橋を渡り、また川の両端の遊歩道を歩いていく。のどかであるような、少しせわしないような午前の光景であった。
(写真:川のたもとに住み着いているらしい猫の家族を発見。人に寄ってくることはないが、逃げることもない。)

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2007年1月21日 (日)

獅子ヶ谷(ししがや)の風景

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Photo_104  上の宮を散策し、宗泉寺近くの坂道を登りきったら、獅子ヶ谷市民の森に突き当たった。灰ヶ久保広場に行く細道からふと眼下を望むと、獅子ヶ谷の緑、まばらに立ち並ぶ家並み、その間を埋めるように作られた小さな畑が見渡せた。私たち家族が横浜での生活を始めたのは今から30年以上前である。そのころ家の近所のあちこちにあった光景が、この獅子ヶ谷にはまだ残されているのだ。たまらなく懐かしい気持ちが湧き上がった。(写真:道を歩いていると前からやってきた野良猫と遭遇。まったく人に慣れておらず、望遠でなんとか写真に収める。完璧な保護色である。)

 

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2007年1月14日 (日)

熊野神社(市場)

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Photo_75   市場東中町の熊野神社である。江戸時代の絵図にも描かれているこの熊野神社は、弘仁年間(810年~)に創建されたのが始まりであるという。広い境内と、入り口の大きな石の鳥居、奥の社殿に向かうまでの長い参道は今までに訪れた他の熊野神社(寺谷・北寺尾)の中で最も格式を感じさせる。しかし人通りの多い商店街の端にありながら、人影がほとんど見えず、不思議と寒々しい雰囲気が漂っていた。(写真:江戸時代初期には鶴見川西方にあったが、その後現在の妙高企業付近に遷座した。東海道の絵図には市場村よりやや離れた位置に「熊野権現」と表記されているのが分かる。このあたりの地名を「元宮」というのはその名残である。その後さらに二度遷座し現在の場所となった。)

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2007年1月 7日 (日)

箱根駅伝

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 国道15号線近くに住むようになってから、ほぼ毎年箱根駅伝を観戦している。今年は往路で観戦した。TVで選手の現在位置を確認してから8時半過ぎに家を出ると、すでに沿道には付近の住人達が大勢集まっていた。警察官が手動で信号を変え、交通整理に当たっている。隣の車線を走る車の運転手がそわそわと顔を動かしているのが見える。選手達が生麦に到達したのは朝の9時頃であった。必死に走ってくる選手全員に、主催の新聞社から渡された無料配布の小旗を振って声援を送った。今年は車両に先導されて走る1位の選手と、その後に連なる2位以下の選手の間に大分差が開いているように感じたが、箱根では1位が替わっていたというのだからわからないものだ。今年もまた正月恒例の行事に参加できたような充実感を持って家に帰った。ふと見ると、先ほどの小旗には、懸賞に参加できる応募券が印刷されていることに気がついた。一等は箱根のホテルの宿泊券である。当たれば嬉しいお年玉である。しかし「ご応募いただいた個人情報は、新聞の購読のお勧めなどに利用させていただきます」の小さい文字も印刷されていた。嬉しいことばかりではないようだ。
(写真左:生麦時点での1位、東海大学 写真右:往路1位となった順天堂大学)

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2007年1月 1日 (月)

【謹賀新年】生麦魚河岸のイカ

Ika2_1 「ika.avi」  Ika2_1 「mizuhuki.avi」

 年末、日曜の朝早く生麦河岸に出かけた。市場の店にて袋詰めにされた生きたイカを見つけ、珍しさのあまり購入する。一杯2000円以上の値段である。「うちは魚屋のルイ・ヴィトンなのよ」というお店の人の言葉が印象的である。別の店で鯵2匹と漬物を購入し担いで帰る。ひらひらと動く頭のヒレが興味深く、しばらく観察していたが、結局は家人に捌いてもらうことにした。イカはこれでもかというくらいに水を吐き最後は墨を吐いて抵抗する。胴体から足が引き離される時にそれまで透き通っていた体の表面が赤く変色する。その赤くなった薄皮をさらに身からはがす。「足の先まで旨いよ。」というお店の人の言葉を再び思い出しながら、最後の一切れまで満足して食した。しかしすべてが自分の胃の中に入っても、しばらくはイカの不思議な動きが思い出されて仕方なかった。
(写真の後の「 」内の英文字をクリックしてください。イカの映像が流れます)

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2006年12月23日 (土)

『関東地名物語』(「谷」地名の研究)

Photo_69 「なぜ東京周辺の地名は「谷」を「タニ」や「コク」と読まず、